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本能寺の変 1582 信長の甲斐出陣 3 126 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐出陣 3 信長、出陣 

信忠は、諏訪から甲府に入った。

 同日。
 信忠の軍勢が甲府に侵攻した。
 
  三月七日、三位中将信忠卿、上の諏訪より甲府に至りて御入国。

信忠は、武田の一族・重臣を成敗した。

 逃げ場を失ったのだろう。
 彼らは、主家に殉ずる道を選んだ。
 
  一条蔵人私宅に御陣を居ゑさせられ、
  武田四郎勝頼一門・親類・家老の者尋ね捜して、
  悉(ことごと)く御成敗。

 
  生害の衆。
  一条右衛門大輔(信竜)・清野美作守・朝比奈摂津守・諏訪越中守・
  武田上総介・今福筑前守・小山田出羽守・正用軒(武田信廉)・
  山懸三郎兵衛子・隆宝(竜芳)、是れはおせうどう(御聖道様)事なり。
  此等皆、御成敗侯なり。

信忠は、軍勢の一部を上野へ派した。

 将は、弟織田信房、団忠正・森長可。 
 
  織田源三郎、団平八・森勝蔵、足軽衆に仰せつけられ、
  上野国表へ差し遣はされ侯ところ、

信長は、戦わずして、上野一国を手に入れた。

 小幡信真は、人質を差し出した。
 上野に、抵抗する者など、いない。

  小幡、人質進上申し、別条これなし。
                          (『信長公記』)

          ⇒ 次回へつづく



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