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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 1 155 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 1 光秀の少年時代~思春期 

信秀は、尾張随一の実力者に成り上がった。

 なかなかの人物だったようである。
 清洲織田家の一家老が尾張を代表する実力者にのし上がった。
 実質的な尾張の覇者。
 その勢力は、守護・守護代家を優に超えるものだった。  

  備後殿は、取り分け器用の仁にて、
  諸家中の能き者と御知音(=親しく交わること)なされ、
  御手に付けられ、
                          (『信長公記』)

 信長が生まれた。

 天文三年(1534)、五月十二日。
 信長、誕生。

 フロイスは、六月二日(本能寺の変)の十九日前と言っている。
 五月は、小の月(二十九日まで)。
 逆算すれば、そうなる。

  而して領内の諸国に布告し、市町村においては男女貴賤悉(ことごと)く
  彼の生まれた五月の日にかの寺院の来って同所に収めた己の神体を拝む
  ことを命じた。

  諸国より集まった人数は非常に多く、ほとんど信ぜられざるもので
  あった。

  信長がかくの如く驕慢となり、世界の創造主また贖主であるデウス
  のみに帰すべきものを奪はんとしたため、
  デウスはかくの如く大衆の集まるを見て得たる歓喜を長く享楽させ
  給はず、
  安土山においてこの祭りを行った後十九日を経て、
  その体は塵となり灰となって地に帰し、
  その霊魂は地獄に葬られた‥‥(略)。
                     (「イエズス会日本年報」)

 
          ⇒ 次回へつづく



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