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本能寺の変 1582 光秀という男 5 113 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 5 1400年代 

斎藤妙純が持是院家を継承した。

 斎藤妙純(利国)は、利永の子。
 利藤の弟である。
 妙椿の養子に入っていた。
 持是院家を継ぐ。

妙純と利藤の間に争いが起こった(文明美濃の乱)。

 御多分に洩れず、である。

 同年(文明十二年1480)。
 妙椿の死から、程なくのこと。
 斎藤氏の主導権をめぐり、争いが起きた。
 妙純と利藤。
 兄弟による闘争である。

妙純が斎藤氏の主導権を握った。

 守護の土岐成頼は、妙純側についた。
 ために、利藤は敗退。
 近江へ逃れた。


          ⇒ 次回へつづく




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