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本能寺の変 1582 光秀の年齢 2 138 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 2 柴田勝家と滝川一益 

柴田勝家は、六十二歳で敗死。

 信長より、十二歳、年上。
 この時は、まだ、気力・体力・行動力のバランスが取れていた。

 しかし、このわずか一年後。
 翌年、四月。
 賤ヶ岳の合戦で、敗れる。
 北庄城にて、自害。
 享年、六十二。

 勝者となった秀吉は、勝家より、十五歳も若い。

滝川一益にも、老人になる時が近づいていた。

 信長より、九歳、年上。
 仕えたのは、天文の終り頃。
 以来、三十有余年。
 忠義一筋、実によく働いた。

信長は、一益に、配慮を示した。 

 以下は、天正十年(1582)三月二十三日、信長が、諏訪法華寺にて、
 滝川一益に、上野一国と信濃二郡を与えた時の様子である。
 
  三月廿三日、滝川左近召し寄せられ、
  上野国、幷(なら)びに、信州の内二郡下され侯。
  

 信長は、間もなく、六十代に突入する一益に、名誉を与え、
 最後の花道をかざってやろうとした。 
 
  年罷り寄り、遠国へ遣はされ侯事、
  痛みおぼしめされ侯と雖(いえど)も、
 
  関東八州の御警固を申しつけ、老後の覚えに上野に在国仕り、
  東国の儀御取次彼れ是れ申しつくべきの旨上意、

  忝くも御秘蔵のゑびか毛の御馬下され、
  此の御馬に乗り侯て、入国仕り侯へと、御諚。
  都鄙の面目、此の節なり。
                          (『信長公記』)

一益も、六十二歳で没。

 本能寺の変後、一益は、柴田勝家に与し、秀吉に反抗するも、
 やがて、これに屈し、北伊勢の所領を全て没収された。
 後、秀吉の家臣となる。
 天正十四年(1586)、越前にて没す。
 享年、六十二。
 偶然にも、勝家と同じである。
 


          ⇒ 次回へつづく



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