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本能寺の変 1582 上総介信長 5 205~208 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 5 清洲乗取り 

*205~208は、バックナンバーです。

205 清洲織田氏が信光を調略した。      『信長公記』

   信光は、これを容れた。             『信長公記』

206 信長は、清洲城乗っ取りを策した。

   信光が清州城に入った。             『信長公記』
   信長は、信光に、好条件を示していた。      『信長公記』

207 信長は、清洲城を手に入れた。      『信長公記』

   坂井大膳は、今川義元に通じていた。       『信長公記』
   信長の下剋上である。              『信長公記』

208 信光は、不慮の死を遂げた。       『信長公記』

   余りにも、都合が良すぎる。           『信長公記』
   信長は、尾張下四郡を丸々手に入れた。
   信長は、禍根を絶った。
   信長は、末恐ろしい男だった。


          ⇒ 次回へつづく

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