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本能寺の変 1582 光秀の年齢 4 148 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 4 最大の敵 

光秀は、明智の将来が不安だった。

 「天下布武」
 信長が、それに向かって走っている内は良い。
 すなわち、自分が生きている間。
 それは、どうにかなる。
 否、する。
 問題は、その後である。

 信長には、「さらなる夢」があった。
 果たして、自分は、それまで、生きているだろうか、・・・・・。
 光秀には、自信が無かった。

 その様な年齢だった。

光秀は、体力に衰えを感じていた。

 光秀は、老人の一歩手前にいる。
 体力上の問題も、出てくる年頃。
 六年前(天正四年)の大病のこともある。
 肉体的負担が、大きすぎたのではないか。

 中国大遠征は、織田家の総力を結集した戦い。
 「天下布武」の総仕上げ。 
 信長、一世一代の大仕事である。 
 代替など叶わぬ役目。
 マイナス的な発言など、出来ようはずがない。

信長は、猜疑心が強い。

 それ故、「今」がある。 

光秀もまた、猜疑心が強い。

 同じ穴の狢。
 同類である。

 佐久間信盛を見よ。
 「走狗、烹(煮)らる」
 用が済めば、棄てられる。
 光秀は、間近で、これを見ていた。
 「衝撃」
 わずか、二年前のこと。 

光秀には、信長に対する不信感があった。

 明智の存続。
 「光慶を守らねばならぬ」

明智の命運は、中国出陣によって定まる。

 それは、決して明るいものではなかった。
 きわめて、暗いものだった。


          ⇒ 次回へつづく


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