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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 4 23 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 4 粛清の怖れ 

信長は、光秀を褒め称えた。

 信盛と比較したわけである。
 
 信長は、光秀の積極的な姿勢を誰よりも高く評価していた。
 織田家は、急拡大・急成長を続けていた。
 その先駆けとなったのが明智光秀。
 謂わば、光秀は織田家中の牽引者。
 すなわち、出世頭だった。

  一、丹波国、日向守が働き、天下の面目をほどこし侯。
 
    次に、羽柴藤吉郎(秀吉)、数ヶ国比類なし。
 
    然うして、池田勝三郎(恒興)、小身といひしも、
    程なく、花熊申し付け(花隈城を攻略した)、
    是れ又、天下の覚えを取る。
 
    爰(ここ)を以て、我が心を発し、
    一廉(ひとかど)の働き、これあるべき事。

光秀は、家臣らの手本だった。

 信長は、光秀を基準にして、家臣らを評価した。

 光秀は、実に、好ましい存在だった。
 織田家中に、大きな刺激を与えた。

 柴田勝家は、その活躍を見て発奮した。
 越前を領していながら、天下の評判を気に懸けて。
 見事、加賀の攻略を成し遂げた。
 
  一、柴田修理亮、右の働き聞及び、一国を存知ながら、
    天下の取沙汰(評判)、迷惑に付きて(気に懸けて)、
    此の春、賀州に至りて、一国平均に申し付くる事。

信長は、報告を重んじた。

 信長は、信盛の不甲斐なさに憤りを感じていた。
 
 特に、コミュニケーションの拙さを指摘している。
 大坂攻めの総指揮官としては、致命的欠陥だった。
 少しは光秀を見習え、と言っているのである。
 
  一、武篇道ふがひなきにおいては、
    属託を以て(人を使って)、調略をも仕り、
    相たらはぬ所をば、我等にきかせ、相済ますのところ、
    五ヶ年、一度も申し越さざるの儀、油断・曲事の事。

信長は、光秀の報告のあり方に満足していた。

 信長は、信盛と、意思の疎通がうまく出来ていなかった。
 織田家中は、命令と報告で成り立っていた。
 信長は、命令し、報告を受け、的確に現状を認識する。
 それも、同時に、多方向へ。
 そして、〃 〃、多方向から。
 
 光秀ならば、・・・・・。
 信長は、苛立っていた。
 
  一、やす田(保田安政)の儀、
    先書注進、彼(大坂)の一揆、攻め崩すにおいては、

    残る小城ども、大略退散致すべきの由、紙面に載せ、父子連判候。

    然るところ、一旦の届けこれなく、
    送り遣(つか)はす事、手前(信盛)の迷惑、
    これを遁(のが)るべしと、事を左右に寄せ、
    彼是(かれこれ)、存分申す(信盛が安政に)やの事。
                           (『信長公記』)
 


          ⇒ 次回へつづく 


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