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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 1 156 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 1 光秀の少年時代~思春期 

道三が主の長井氏を殺害した。

 同年(天文三年1534)。
 程なくして、恐ろしい事件が起こった。
 長井新九郎規秀(道三)が、主人長井景弘を殺害した。
 「代々惣領成るを討ち殺し」(「春日文書」)。
 
主家(長井氏)を乗っ取った。

道三の国盗りは、父新左衛門の代から始まった。

 太田牛一にとって、それは遠い過去の事件。
 牛一は、道三一代で、成し遂げたもの、と認識していたようである。
 これは、誤り。
 
  一、斎藤山城道三は、元来、山城国西岡の松波と云う者なり。
    一年下国侯て、美濃国長井藤左衛門(長弘)を憑(たの)み、
    扶持を請け、余(与)力をも付けられ侯。

 ここまでは、父、長井新左衛門のこと。
 新左衛門は、山城西岡(桂川の西岸地域)の出身で、松波と称していた
 らしい。
 後、美濃に移り、西村→長井と改姓した。 

 そして、ここからが、道三(長井新九郎規秀)の部分である
 
    折節、情無く、主の頸を切り、長井新九郎と名乗る。

   一族同名共、野心を発し、取合ひ半の刻(きざみ)、

道三は、土岐頼芸を利用した。

 頼芸は、人がいい。
 「木偶(でく)」
 いいように、利用された。     

    土岐頼芸公、大桑に御在城候を(岐阜県山県市大桑)、
    長井新九郎、憑み奉り候ところ、
    別状なく御荷担候。
    其の故を以て、存分に達す。
                          (『信長公記』)
 

頼芸は、道三の野心に気づいていない。

 道三は、邪魔者を一人づつ片付けていく。

光秀は、これらのことを知っている。

 光秀の少年時代~思春期の頃。
 美濃は、この様な状況だった。
 光秀は、こういう環境の中で成長した。
  
   
 
          ⇒ 次回へつづく




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