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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 3 56 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 3 「天下布武」 

「天下布武」

 同年(永禄十年1567)、十一月。
 この頃からである。
 信長は、「天下布武」の朱印を使い始めた。

信長は、己の決意をこの朱印に込めた。

 以下は、坂井利貞への知行宛行状。
 これが、その初見とされる。
 
  扶助として、旦嶋の内弐拾貫文申し付くるの上、
  全く知行、相違有るべからざるの状件の如し、
    永禄十
     十一月日             信長(朱印)
      坂井文助殿
                  (「坂井遺芳」「信長文書の研究」)

信長は、正親町天皇より綸旨を与えられた。

 信長は、名実ともに、有力大名として認知された。
 地方区から、一躍、全国区へと名乗りを上げたわけである。
 
 綸旨とは、天皇の命をうけて、蔵人が出す、奉書形式の文書。
 天皇の綸旨案は、次の通りである(「経元卿御教書案」)。

 信長を大いに褒め上げて。
 さらに励め、と激励している。
 
  今度、国々本意に属するの由、
  尤も武勇の長上、天道の感応、古今無双の名将、
  弥(いよいよ)、勝に乗ぜらるべきの条、勿論たり、

 そして、天皇領の回復を求めた。

  就中(なかんづく)、両国御料所且つは御目録を出さるゝの条、
  厳重に申し付けらるれば、神妙たるべきの旨、
  綸命此の如し、
  これを悉(つく)せ、以って状す、
 
     永禄十年十一月九日       右中弁  (花押)
                           晴豊(勧修寺)
      織田尾張守殿

                        (「信長文書の研究」)

同じ頃、足利義昭は越前一乗谷にいた。

 義昭は、和田→矢島→若狭→敦賀、と流浪した。
 そして、「漸く」、朝倉氏の本拠地、一乗谷に入った。

  斯くして、国中、騒動も漸(ようやく)く静ける程に、
  義昭公、一乗の谷へ入御成さるべきとて、

  永禄十年十月(十一月の誤り)廿一日、敦賀を御出で有り、
  府中龍門寺へ入り給ひ、暫し、御休息ましまして、

  其の日の亥の刻(午後十時ころ)、一乗安養寺に着御なり、
                          (「朝倉始末記」)


          ⇒ 次回へつづく 

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