見出し画像

本能寺の変 1582 光秀という男 1 96 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 1 『日本史』 

光秀は、度々、主を変えている。

 以下は、光秀の主人の変遷である。

  人生の前半部分        →        後半部分
  土岐氏 → 牢人・不明 → 細川藤孝 → 足利義昭 → 織田信長
 
 
これらについては、後述する。

光秀は、主替えによって立身出世した。

 光秀の人生の後半部分。
 信長と、ともにあった十五年。
 光秀は、彗星の如く輝いた。

  土岐氏家臣 → 牢人・不明 → 中間 →  足軽  → 国持大名

 これらについては、後述する。

光秀は、忠義心が希薄だった。

 元亀四年1573、将軍義昭を追放。
 天正十年1582、信長を殺害。
 明々白々。

 これらについては、後述する。

光秀は、出世のために主君を利用した。

 その様な見方も出来る。

 信長は、「天下布武」のために、有能な光秀を利用した。
 その結果、あれ程の短期間で、ここまで成し遂げることが出来た。
 光秀の貢献度は、大きい。

 光秀は、信長の熱い思いを、よくよく理解した上で、
 これに、残りの全人生を賭けた。
 否、信長を利用した。
 その結果が、今、この時の状況なのである。

 すなわち、・・・・・。
 なるほど、出世はした。
 「持てる者」には、成った。
 しかし、「悩みは、多し」、・・・・・。

 二人は、互いに、利用し・利用される関係にあったのである。

 そして、蜜月の関係は、いつまでも、続かなかった。

 これらについては、後述する。


          ⇒ 次回へつづく 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?