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パナマシティー滞在 南北アメリカ自転車縦断 パナマ(2)

パナマ・シティーのバスターミナルはとても大きくて立派でまるで空港ターミナルのようだった。私の持っているガイドブックに載っている、バックパッカー御用達の宿を目指して自転車で移動。途中、いろいろな人に道を聞いたが、いい加減な人、親切な人、そして親切すぎる人までいろいろだった。

ホステルの受付の女の子は超が付くくらい不愛想で、こちらの話を分かろうとしない。いつもだと、宿の人に英語とスペイン語のチャンポンで「アイ ハヴ ビシクレタ(ビシクレタはスペイン語で自転車)」と言うと、「ああ、自転車はそこに置いてね~」と返してくれるのだが、こちらの意図が伝わらなかったのは初めてのことだった。

彼女と私のやりとりを聞いていた宿泊者が助けてくれて、自転車はベランダに置くことができた。宿はビルの4階にあり、風が入る分ダビッドよりはだいぶ過ごしやすかった。1泊8.5ドル。

日本人の女性が泊っていた。定職にはつかず、水商売も含めて派遣で働いては旅に出る、を繰り返している人だった。ラテンアメリカをいろいろ回ってこれからNY経由で日本に帰るところ。これから私が向かう南アメリカについて「聞きたいことがあったら何でも聞いて」と言ってくれるが、あまりにも情報が無さ過ぎて、逆に何を聞いていいのか分からない。まあ、旅人からの情報はこれまでもあまり持たずに移動してきたので、南アメリカもそれで行けばいいやと思う。

彼女から小さなトマトをもらった。「トマトの原型」だそうで、確かに食べてみると皮にはかなりの苦みがあるが、味は非常に濃い。まさに野生の味だった。そういえばトマトってラテンアメリカ原産だったか。

パナマ・シティーのスーパーではバナナが安い、そして美味しい。(あれだけバナナ園があればそりゃそうだよね(笑)。)なんと2本で5セント(6円)。パナマ・シティー滞在中は本当にお世話になった。

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パナマ・シティーですべきことの第一が、コロンビアに行く手段を確保することだった。

パナマとコロンビアの間には道路が通っていない。国境は完全なジャングルとなっているので、陸路での移動は不可能。(一説によると、コロンビアは道を建設したがっているが、麻薬やマフィアの流入を恐れるパナマが拒否しているらしい。)

貨物船がコロンビアの港町カルタヘナまで出ていて、旅行者はそれに乗ることができるらしい。でも不定期なので、次いつ出るのかが分からない。ホステルには船の情報があるにはあったが、「Leaving soon」とあっても全くあてにならないらしい。事実、ホステルに泊まっていたカナダ人バックパッカーは「1週間待ったが何の動きもないので飛行機にした」と言っていた。

待つのはかったるいし、何よりもっと涼しいところに行きたい。船で行ったら着いた先も暑いじゃないか。そんなのは御免こうむりたい。

一方、コロンビアの首都ボゴタは何と標高2,625mもある。それだけ標高が高ければきっとかなり過ごしやすいだろう。更にスタート地点の標高が高いということは、言わば標高の「貯金」ができる。

もう飛行機以外の選択肢は考えられない(笑)。

ホステルから歩いてすぐのところにアビアンカ航空(コロンビアの航空会社)のオフィスがあったので、そこでボゴタ行きの往復チケットを買った。往復にしたのは、スタッフに「コロンビアに入国の際には帰りのチケットが必要」と言われたから。378ドルだがこれはカードで払う。

コロンビア入国は両替などの関係で週末は避けたいので、月曜出発にする。パナマ・シティーはちょうど1週間滞在することになった。

飛行機のチケットの購入以外にやったことは、南アメリカのガイドブックを買うこと、絵葉書を書いて送ること(20枚とかになるとこれだけで一日仕事になる)、トラベラーズチェックをドル現金に換えておくこと、それに自転車の部品を調達すること、などだろうか。

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観光らしい観光はそれほどしなかったが、それでもパナマ運河には行ってみた。展望デッキの入場料はパナマ人は無料だが、外国人は5ドルだった。

パナマ運河は並行して2本あったが、私がいた時間帯はどちらのレーンもカリブ海から太平洋に抜ける船が使用していた。海抜26メートルのガトゥン湖から「3段の階段を降りて」太平洋に抜ける。

展望台から、実際に「レーン」内の水を抜くことで船が「下がる」様子が見えて面白かった。

歴史的にも経済的にも重要な施設であることはもちろんだが、それよりも船の大きさに圧倒される。こんな船をよく通すな、、、と思いながら見ていたら、1隻の船がコンクリートの壁にぶつかって、粉塵が舞い上がっていた(笑)。

日本語のパンフレットによると、年間11,000隻が通り、通行料の年間総額は6億6,600万ドルにもなるとのこと。1914年の開通以来、運河は長い間アメリカによって管理されていたが、1999年12月31日にパナマに返還された。これはパナマにとって大きなメリットで、パナマ運河局は以来たったの4年間で、アメリカがこれまでにパナマ側に支払った使用料総額の実に85%に当たる金額をパナマ政府に収めることができたらしい。

自分が見た4隻のうち、2隻には日本国旗が掲げられていた。多分これから日本に向かうのであろう。「あれに乗ったら日本に着けるんだな」と思うと、なんか世界の小ささというか、繋がりを感じた。(「あれに乗ったら、って、実際には乗れないのだけど(笑)。」)

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ある日、チェックインをしている男性に「日本人の方ですか」と声を掛けられる。初日にトマトの原型をくれた女性に会って以来、日本人はいなかったので、やっと日本人の人が来たかと思ったら、彼は韓国人だった。50歳代のおっさんだが、かなり若く見える。

チェさんは政府機関で働いていたが、早期退職をしたとのこと。プサンの人でツアー会社を持っているらしい。メキシコからずっと下って来て、この後は南米へ行く、とのこと。

彼もこれからボゴタに行く、とのことで、チケットを買うのを手伝ってあげる。結局彼も私と同じ飛行機となった。

その日の夕食はチェさんと韓国料理屋へ行く。キムチ美味しい、ご飯美味しい、料理も最高!で、満足だけど二人で25ドル。自分は12ドル払ったのだが、12ドルあればパナマ料理なら4回分になる。

次は節約しようと思ったのだが、結局その後も夕食はチェさんと韓国料理屋へ。チェさんは何でもこちらに頼ってくるのと、なおかつ韓国料理屋にかなり強引に誘ってくるのがちょっと面倒。どうやら彼はこれまでもずっと日本人宿を渡り歩いて、いろいろな日本人旅行者に助けてもらいながら旅をしてきたらしい。

彼の口癖は、「日本人はみんな親切ですネ」だった。そう言われてしまうと、こちらは親切に対応してあげないといけないような気になってしまう。(今考えると、それが彼の戦法だったのかもしれない(笑)。)

パナマ料理の店に行きましょう、とチェさんを誘ったのだが、彼はあんな不味い料理は食べられない、と言う。「じゃあ、自分はパナマ料理の店に行くので、チェさんは韓国料理屋に行ってください」というと、とたんに悲しそうな顔をして、「私を独りにしないでください」と頼まれる。それでこっちは、まあしゃあないか、となる(笑)。

でもチェさんは快活で、一緒にいると非常に面白い人ではあった。

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3月14日。コロンビアのボゴタへ移動する日。

空港までは自転車で移動するつもりだったが、チェさんに言いくるめられて、一緒にタクシーで向かう。15ドルを二人で割る。空港に着いてからも非常にスムーズで定刻の12:45分にテイクオフ。コロンビアは美人が多い、と聞いていたが、フライトアテンダントはみんなおばさんだった。

ボゴタには14:10分に到着。イミグレでは特に何も聞かれず、機械にパスポートを通して、スタンプが押されるだけ。入国カードに30日滞在予定、と書いておいたらその通り30日滞在許可が出た。

空港で当座の資金として20ドルだけ両替する。両替所は3軒あったが、1軒は閉まっていた。1軒は1ドル=2190ペソ、もう1軒は1ドル=2120ペソだったので、当然2190ペソの方に並んだが、なんと自分の数人前のところでクローズになってしまった。仕方なく、2120ペソの方で両替。

チェさんは基本的には自分では何もしようとしない。このときも私に20ドルを渡して、両替してもらうのを待っていた。だんだんと一緒に行動するのが負担に感じるようになってくる。

チェさんと一緒にタクシーでバックパッカー御用達の宿、ホテルアラゴンへ。タクシーの車窓から気づいたのだが、ボゴタはあちこちにサイクリング専用道路がある。これは日本のどの都市よりも優れていると言える。

ホテルアラゴンでは、シングルに空きがなかったので、チェさんと一緒にダブルの部屋になった。(「今晩は仕方ないので、明日はシングルに移りましょう」と話をしたが、結局移るのが面倒になり3泊ともチェさんと一緒だった。)

宿には日本人のMさんがいた。毎週土曜日にどこかで日本語を教えている、とのこと。Mさんは実はチェさんとメキシコで会っていた。韓国人であるチェさんは、日本人と違い、次の国エクアドルの入国にはビザがいる。その取得をMさんに手伝ってもらうつもりでこの宿にやって来た、ということだった。

チェさんを無事Mさんに引き渡すことができて(?)、良かった。

いよいよここから南米サイクリングのスタートとなる。

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