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いまにつながる江戸時代の暮らし「長崎歳時記手帖」 第9回 節分 ~初午、上元、唐館龍踊り~

季節感を深呼吸!
いまにつながる江戸時代の暮らし「長崎歳時記手帖」

第9回 節分 ~初午、上元、唐館龍踊り~

 いまに伝わる年中行事や風俗習慣を、江戸後期の長崎で生まれた「絵」と「文」ふたつの歳時記を中心に、一年かけてご紹介していきます。今回は、節分。いまも盛んに行われていますが、江戸時代はどんなふうだったのでしょう?「初午」は、その年初めての午の日のお祭り。「上元」は、旧暦一月十五日の行事で、現在はランタンフェスティバルの最終日、ロウソク祭りとして知られています。この日、唐人屋敷では龍踊りが披露されていて、それが長崎くんちの龍踊りになりました。では、たっぷりどうぞ!


節分

 節分の夜、家々ではなますを作り、神棚、恵方棚、そのほか家財道具、浴室、トイレなどに明かりをつけておき、黄昏を過ぎるころ、「最初の暗闇」といって、灯してあった家中の明かりを全部消して、豆まきを始めます。この豆は二合でも三合でもいいのですが、一升枡に入れて、金持ちは出入りの者、普通あるいは貧乏な家は、家の主が豆を持って年男になり、まずは恵方棚、神棚に向かい、とても小さな声で「福は内」と三回唱え、それから大きな声で「鬼は外!」と唱えます。家の部屋ぜんぶを回ったあと、庭に降りて、外に向けて打ち出します。家によってやりかたは様々ですが、これが終われば、祝い酒です。俗にこの夜の大豆は、いつもより強く煎るとよいと伝えられています。女たちが昔から言い伝えているだけで、その意味を知る者はあまりいませんが、「赤くて丸いもので災厄や鬼を追う」という話が「文選六臣注(中国の詩文集とその注釈書)」に詳しく載っているのを見ると、昔から大豆を「赤くて丸いもの」に見立てて、煎り過ぎを良しとするのではないでしょうか。

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「節分、豆まき」

 豆をまくのは今もおなじですが、まず最初に家中の明かりをつけておいて、それをいったん消してから、豆をまいていたのですね。「暗闇」からの、新しい春の始まり、ということなのでしょうか。
 大豆を「深煎り」するのがいいというのも面白いです。「赤」や「丸いもの」など、このあたりの習俗には、陰陽五行の考え方が反映されているようにも見えます。
 節分の絵には、別バージョンやモノクロのものもあります。
 特にモノクロのものでよく見えると思うのですが、壁にでっかい魚などがぶら下がっています。これは年末のところでご紹介した「幸木」です。まだ魚が丸々としていますね。新暦で生活している現在では、お正月と節分はひと月ほど離れていますが、当時は旧暦ですので、そんなに間が空きません。今年(2022)だと、2月1日が「一月一日」で、2月3日が「節分」です。幸木の食べ物は、飾っておくだけでなく、徐々に食べていくもの。そう思って見ると、二日三日ではそうそう痩せなさそうな魚たちです。

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「節分、豆まき」別バージョン

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「節分、豆まき」モノクロバージョン

大正時代に出された「長崎市史風俗編」には「旧家永見家」の「豆打」が紹介されています。

番頭下僕上下を着け、下婢二人は大なるしゃもじを手にして上下を着けたる一人音頭をとり福は内と三度唱え、鬼は外と声高に三度呼べば、自余のものまた鬼は外と声高に合唱す。その度毎にしゃもじを持てる下婢はしゃもじを上下に動かしつつ「尤(もっと)も尤も」と云う。

「かみしも」と「じょうげ」が入り乱れて訳が分からなくなりますが、現在も長崎の郊外に現れる「モットモ爺」を思い出します。
「風俗編」にはこのほか、豆まきの時に窓から長い綱を垂らしておいて、豆によって追い詰められた鬼がそれにすがって逃げるように取り計らうというならわしもありました。追い払っても殺しはしない、転落死は避ける、ということでしょうか。
 「鬼の受難」は、食べ物にも。

 この日は紅大根という赤い大根が売られています。古くから、家々ではこれを買ってなますに刻んだり、生のまま輪切りにして台に盛り、かたわらに塩を添えて、この夜の肴とします。退治した鬼の手に見立てているのです。

これは今も長崎では売ってありますね。カナガシラ、ガッツの煮付けも縁起物として食べられています。風俗編には、

紅大根を薄く円形に切りて、これを鬼のテコボシ(手拳)と称し、金柑を鬼の眼に擬す。そのほか尺八烏賊、鯨の百尋など欠くべからざるものである。なお鮨をもこしらえて祝い食す。

とあります。お鮨は恵方巻ではなさそうですが。

こんなならわしもありました。

 暮れごろには、一年間使ってきた火吹き竹の口に紙を詰め、家々の子どもたちや使用人たちが、これを門口より外に投げ捨てるのですが、投げた先は絶対に見てはならないとされています。これがまた、昔ながらのことで、理由はわかりません。ひょっとしたら、火吹き竹は一年の間、「気」を吹き入れ続けた物ですから、それを邪気にたとえて投げ捨てるということでしょうか。いずれにせよ、これを誰かが拾うのは禁じられているのですが、その多くは非人や乞食といった者どもが拾って薪にします。

川原慶賀さんは、家々で食べ物を施される人々の姿も描いています。彼らもまた、節分には火吹き竹を集めて回ったのでしょうか。

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「物乞い」

ちょっと切ない絵ではありますが、物乞いの女性のつぎはぎに見入ってしまいました。こういうところまで描き込むのが、慶賀さんの真骨頂?です。

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節分の夜は、こんな人たちも往来していました。

 この夜は厄払いといって、山伏などの宗教者たちが貝を吹き、鈴を振り、あるいは錫杖を振り立てて、街中を「厄払い、厄払い」と触れ歩きます。もしお祓いを頼みたければ、小銭を包んで門先でおはらいしてもらいます。 また、三味線や太鼓、笛を囃したて、踊りをしたりしながら、寿ぎをする人がいたり、へぎに塩を詰み「恵方から潮が満ちて来ました~」と言う者、あるいは白ネズミの作り物などを持って家々を回り、お金を乞う者もいます。このようなことは、ただ卑しい者たちの稼ぎというだけでなく、遊び人たちが戯れにその姿を真似して顔を隠し、若いお嬢さんのいる家をつぶさに回って、お嫁さん探しをしている場合もあります。

あやしい宗教者からお嫁さん探しまで、いろいろですね。

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「修験者、行者」


おすわさんの豆まきも紹介されています。

諏訪社の拝殿でも豆まきがあります。諏訪社の年豆は、例年、土製の「八分大黒」を三勺ほど入れ混ぜており、この「大黒」を拾い当てた者は、その年の福を得るといわれています。

 文龍さんの時代には、諏訪神社の豆に小さな「大黒」が混ぜられていたようですが、現在は、江戸時代に作られたという「大黒札」が販売されています。(十年くらい前の写真です。今もあるんでしょうか)

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初午

二月最初の「午」の日は「初午」のお祭りがあります。ちなみに今年は2月10日だそうです。

 二月初めての午の日は、あちこちの稲荷社で祭礼があります。社ごとに青、黄、赤、白の旗をひるがえし、参詣者は赤飯を炊いて供物を献じます。家屋敷に安置されているお稲荷さんも、おなじようにお祭りします。(とはいえ長崎では、みんながみんな稲荷を信仰しているわけでもありません。)

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「初午」

出島の商館長、メイランさんはこのように解説しています。

 この祭りの精霊である稲荷の神は、家屋を火災から護るのに大きな力を持つと信ぜられており、この祭りが二月の遅い日に当たれば当たるほど、稲荷の神の保護を受けることが一層確実だというのである。

 神社の一隅から家の敷地、ビルの屋上、現代でもあらゆるところに祀られている稲荷神には、それぞれの土地や生命力を畏れ、敬う心が託されています。慶賀さんの絵は、丸山の梅園天満宮の境内にある稲荷社だとされています。壁の向こうは史跡料亭の「花月」です。
 ちなみに、擬人化された稲荷大明神を描いた絵もあります。そう言われないと分からないですけど、狐を伴い、「稲」を「荷」なっています。

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「老人図 稲荷大明神」


唐館龍踊り、上元


 全文訳では前回掲載しているのですが、旧暦一月十五日の行事をご紹介します。唐人屋敷で行われていたものなので、旧暦正月の春節を祝うランタンフェスティバルともつながっています。
 まずは龍踊り。

 十五日。唐館では「蛇おどり」があります。唐人たちがハリボテの大きな蛇を作り、夜になってその体内に灯を灯して、館内をぐねぐね回るのです。船主や財副の部屋では、露台に毛氈を敷いて、数十の灯をつけて賑わいます。市中の女子供たちは、館内の上にある小島郷の稲荷岳に登って見物します。

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「唐蘭館絵巻 唐館図 龍踊図」

唐寺のひとつ福済寺では、ランタンフェスティバルでの「ロウソク祈願」を思わせるお祭りが行われていました。

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 福濟寺(下筑後町の山手にある漳州寺)の観音堂で「ろうそく替え」があります。俗に「しょんがん」「しょむがん」と言います。これは「じゅんぐわん」という中国語が転じたもので「上元」であると言います。
 日暮れごろよりお堂の仏様の前のロウソク立てに、唐のロウソク数千本を立てて火を灯しておきます。市中からやってきた人たちは、和ロウソクを持参し、手前から、唐ロウソクと交換します。次々に引き換えられるので、まるでロウソクが階段をのぼっているかのようです。換えた唐ロウソクは持ち帰るのですが、それは、仏前にかかげられ、お経の上がったロウソクなので、もし家に病人などあるならば、枕の上にこれをかかげることで、ご祈祷になるというのです。ゆえに、参詣する人たちが、昔から肩を擦るようにして競って立て替えるのですが、これが中国の風習であるのかどうなのかはよくわかりません。

 持参したろうそくをお寺のものと取り替えて、それが病気に効く、という不思議なならわしです。
 国宝にも指定されていた福済寺は、原爆で全焼しました。現在、大きな観音様が立っておられる、駅前のお寺です。

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「福済寺」

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「福済寺、観音堂」

 新しい年、新しい春。コロナ禍も早く開けてほしいです!コロナ〜外!

 ではまた次回。桃の節句にお会いしましょう!


「長崎歳時記」全文訳 節分 二月

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節分

 節分の夜は、家々ではなますを作り、神棚、恵方棚、そのほか家財道具、浴室、トイレなどに明かりをつけておき、黄昏を過ぎるころ、「最初の暗闇」といって、灯してあった家中の明かりを全部消して、豆まきをはじめます。この豆は二合でも三合でも、量は問いません。「年男」といって、金持ちは出入りの者、普通あるいは貧乏な家は、家の主が一升枡に入れた豆を持って、まずは恵方棚、神棚に向かい、とても小さな声で「福は内」と三回唱え、それから大きな声で「鬼は外!」と唱えます。家の部屋ごとにおなじように回って、また、庭に降りて、外に向けて打ち出します。家によってやりかたは様々ですが、これが終われば、祝い酒です。俗にこの夜の大豆は、いつもより強く煎るとよいと伝えられています。このことを女たちは昔から言い伝えられているだけで、その意味を知る者はあまりいません。私見ですが、「赤くて丸いもので災厄や鬼を追う」という話が「文選六臣注(中国の詩文集とその注釈書)」に詳しく載っているのを見ると、昔から大豆を「赤くて丸いもの」に見立てて、煎り過ぎを良しとするのでは、と考えています。
 この日は紅大根という赤い大根が売られているので、家々ではこれを買ってなますに刻んだり、生のまま輪切りにして台に盛り、かたわらに塩を添えて、この夜の第一の肴とすることは、家の大小に関わらず、古来からのしきたりです。これは、退治した鬼の手に見立てた物だと伝えられています。
 年の内の立春も、そのやり方はおなじような感じです。この「年豆」を蓄えておいて、二十日正月の煮込みに入れる家もあります。
 また、初めて雷が鳴った日に食べれば、一年中、雷を避けると言い伝える人もいて、その真意はわかりません。
 この日の暮れごろには、一年使ってきた火吹き竹の口に紙を詰め、子供や使用人たちが、これを門口より外に投げ捨てるのですが、投げた先は絶対に見てはならないとされています。これがまた、昔ながらのことで、どうしてこうなのかはわかりません。ひょっとしたら、火吹き竹は一年の間、ふーふーと気を吹き入れ続けた物ですから、それを邪気にたとえて投げ捨てるという意味なのかもしれません。いずれにせよ、これを誰かが拾うということは禁じられているのですが、その多くは非人や乞食といった者どもが拾って薪にするのです。
 この夜は厄払いといって、山伏などの宗教者たちが貝を吹き、鈴を振り、あるいは錫杖を振り立てて、街中を「厄払い、厄払い」と触れ歩きます。もしおはらいを頼みたければ、小銭を包んで門先でおはらいしてもらいます。 また、三味線や太鼓、笛を囃したて、踊ったりしながら、寿ぎをする人がいたり、へぎに塩を詰み、あるいは白鼠の作り物などを持って家々を回り、お金を乞う者もいます。もっとも塩を持ってくる人たちは皆「恵方から潮が満ちて来ました~」と言いながら差し出します。このようなことは、ただ卑しい者たちの稼ぎというだけでなく、遊び人たちが戯れにその姿を真似して顔を隠し、若いお嬢さんのいる家をつぶさに回って顔かたちを確かめ、お嫁さん探しのたすけにする場合もあります。
 諏訪社では天下一統百鬼の夜行を祓って、鬼やらいをします。その百鬼が散り散りにならないように、疫神所に封じ込めておいて清祓いを行い、疫神を祭り、塚を捨てるというのです。あるいは、厄年の男女が清祓いに参拝すると、厄難を避け、疫神も除かれるといいます。拝殿では(家々の)神棚とおなじような豆まきがあるので、町の人々は上下を着たり、あるいは平服で参詣します。諏訪社の年豆は、例年、土製の八分大黒を三勺ほど入れ混ぜているので、卑しい者たちはみな争って神社に集まり、豆を拾います。この「大黒」を拾い当てた者は、その年の福を得るといわれています。


二月

一日
 諸役人は佳日を拝します。

 この月初めての午の日には、あちこちの稲荷社で祭礼があります。社殿ごとに青、黄、赤、白の旗をひるがえし、参詣者はそれぞれに赤飯を炊いて供物を献じます。たまたま家などに安置されているお稲荷さんも、おなじようにお祭りします。(とはいえ長崎では、みんながみんな稲荷を信仰しているわけでもありません。)

二日
 毎年、唐人屋敷で唐人踊りがあります。

 六日ごろより、七ヶ村の踏絵が始まります。七ヶ村は、日見村、古賀村、茂木村、河原村、椛島村、野母村、高浜村です。この中にはさらに、網場や田上、飯香浦、宮摺などの小名があります。いずれも代官所の支配地なので、代官の手代、足軽などを引き連れて回ります。

十五日
 諸役人は佳日を拝します。

 涅槃会。お寺では堂内に大きな涅槃像を掛けて香と花をお供えし、たくさんの人がお参りします。
古老が言うには、その昔、絵師が禅林禅寺(八幡町、寺町にあり)の涅槃絵を描いていたところ、毎日、猫がかたわらにやってきて立ち去りませんでした。身をひそめて、頭を下げて、なにか物を思い、感じている様子だったそうです。絵師は心動かされ、ついに涅槃絵にその猫を描き加えたところ、いつしか姿は消え、ふたたび来ることはなかったというのです。今の世になっても、みんなこの話をして、不思議だね~と言っています。というわけで、長崎にあるお寺の涅槃像の中で、この寺のものがいちばんいいということになっているのです。

 彦山祭礼。
 この山は長崎の東にあって、雅名を峨眉山といいます。中国の峨眉岳に似ているので、唐人たちが名付けたのです。以前は参詣する者が多かったのですが、いまはやや衰えているようです。

二十八日
 諸役人は佳日を拝します。

二十九日
 このころまで、酒屋町、袋町、本紺屋町、材木町の通りには雛見せが出ます。夜、見物の人が大勢です。

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 「長崎歳時記手帖」の「絵」は、町絵師で出島出入り絵師の川原慶賀が描いた「長崎歳時記」のシリーズで、原則として長崎歴史文化博物館のウェブサイト内にある「川原慶賀が見た江戸時代の日本(I)」からの引用でご紹介しています。

http://www.nmhc.jp/keiga01/

 「文」は、長崎の地役人であり、国学者でもあったという野口文龍による「長崎歳時記」。元旦から大晦日までの年中行事やならわしが、細かく記されています。
 ふたつの「長崎歳時記」をまとめた拙著「川原慶賀の『日本』画帳」をお手元に置いていただくのも、おすすめです!

https://www.amazon.co.jp/%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E6%85%B6%E8%B3%80%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8D%E7%94%BB%E5%B8%B3%E3%80%8A%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E7%B5%B5%E5%B8%AB%E3%81%8C%E6%8F%8F%E3%81%8F%E6%AD%B3%E6%99%82%E8%A8%98%E3%80%8B-%E4%B8%8B%E5%A6%BB-%E3%81%BF%E3%81%A9%E3%82%8A/dp/4863291361




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