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福澤諭吉さんが新しい一万円札の顔になりました!【新札・発券開始】

 祖父の事務所には3枚のお札が飾ってあった。

番号が揃っている3枚

 懐かしい、福澤諭吉、新渡戸稲造、夏目漱石のお札(D号券・1984年発券開始)のセットで、珍しいことにお札の番号(記番号)が3つともA000007Aで揃っている。

 祖父はこのお札が発表されるときの大蔵大臣だったので、発行記念に大蔵省から寄贈されたのだと思う。が、一方で、この手のものは「発券開始時」の大蔵大臣に贈られるべきものとも思うので、なぜ「発表時」の大臣だった祖父の手元にあったのかはわからない。

 これまで新券が発行されると若い番号は関係する各所に寄贈されていた。例えば、D号券の一万円札はA000002A番が慶應義塾に、出身藩の大分県中津市にA000001B番、出生地の大阪や、裏面の鳳凰堂のある平等院にも若い番号が寄贈された。その流れで大蔵大臣にも……?
 とまあ、D号券A000007A番の寄贈先を財務省に問い合わせればわかるかもしれないが、私の興味のためだけに40年も昔の記録を探してもらうのは気が引ける。

 D券発行開始時の大蔵大臣は、”気配り”の竹下登さんだったから、「このお札はミッチーさんが苦労して決めたから」と届けられた、なんて想像をしてもいいかもしれない。なんたって、40年も昔のことだ。
 政治は「目配り、気配り、カネ配り」と言われていた時代で、言葉通りの冗談で笑ってしまう。

 ところで私は慶應幼稚舎(慶應の小学校)の出身だが、これまでの人生で何度か「あなたのおじいちゃんが福澤先生を一万円札にしたから、君は幼稚舎に入れたんだ」と言われたことがある。たしかに学校の創始者が一万円札の顔になった宣伝効果は、慶応にとってお金には代えられない価値があっただろう。が、我が家の慶応に対してのアクションは別にこれだけではなく、寄付もしたし、私も複数のお受験のためのガチ塾に2歳4か月から通っていたので、「それだけじゃねーよ」と反論したい。まぁ、真偽不明のヨタ話である。

 ただ、渡辺ミッチーの孫は7人いて、7人とも幼稚舎に入ったことは事実で、7人目の時は、お札発行から15年経ち、祖父も亡くなっていた。それでも「一万円札」のための情実入学だったとすれば、慶應義塾はずいぶんと義理堅い学校だと思う。

 まあ、なにはともあれ、福澤先生、約40年間のおつとめ、お疲れ様でした。

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