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〜みたにノ戯言.12〜

みたにノ日常について紹介した。

が、実際に調べても検索には引っかからず、インスタとnote内でしか出てこないことに気付いたので、こういうタイトルで書こうと思う。

内容は日常と言いつつ、少し非日常が入る。


実際、文章を書くときは気分は少し非日常的でないと書けない。なので今も実は屋上で満月を見ながらか書いていたりする。

酔いを冷ましているだけなのだが、文章にすると似非ロマンチストをまぶした様な気持ち悪さがある。


日常とはなんなのでしょう。
わからない。


僕は一般的に見ると非日常に傾いているように見えると思うが、それは僕の日常であり、それ以外何でもない。

この2日間、知らない街を散策した。知らない風景と垣間見える文化。その中で生きる人。通り過ぎる人。見えてるものがどこまで本当なのか僕は知らない。調べても本当はわからない。多分、最終的には信じるか疑うしかないのだろう。僕は信じたい。でも初めは疑う。

初対面の人と会う僕はまず徹底的に疑う。知らないその人のことを勝手に想像して、ネガティブに考える。でも一旦信じてしまうとほぼ疑うことがない。

この人の言うことは真実だと思うし、他の意見を関与させるのが難しくなる。

知り合いを疑うことは僕にはできない。
だから、もし知り合いに詐欺がいたらまず間違いなく引っかかる自信がある。そして多分許す。


「僕は人が嫌いである。僕は人が好きである。」


実はこれは矛盾しない。人のことが嫌いということは実はもっよくなることを想定していて、好きと言うことは人の善悪、失敗や成功、その習性に対して期待していることである。それらは同時に存在するものだ。と思う。

人の習性に辟易しながらも、良くなることを想定して、期待している。信じている。


僕はおそらく一般的にメンタルが強くて、他の人と比べて、一人で生きていける可能性が高い人物ではある。人間の存在をあまり必要としなくとも生きれる。僕の人生観や死生観と大きく関わることであるが、

一人で生きる。これは難しいことではない。

僕はそうである。


しかし、それは長生きする事を“不動の是”としない僕の視座に囚われたものだ。

僕にとって時間や長寿は意味があまりない。それは語弊があるかも知れないが、長寿であることが、沢山の時間を費やすことが、やりたいことをできる条件ではないし、僕の存在の証明意義に繋がるわけでもない。


この世界は幻想であるとした時、他者の存在は限りなく広がり、薄まる事も、深まることもある。幻想なのだから、心の支えが人である必要はない。自分に必要なのは別のものであるという一種の自己暗示がかけられれば良い。

そうすれば、人の存在はあまり重要ではない。


でも僕は人を認識することが好きである。


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