思い出屋

深夜2時ごろ、大学の長い夏休みが原因で生活リズムが完全に狂ってしまった僕はなんとなく夜の街の雰囲気が好きでここ一ヶ月ほど散歩を日課としていた。

今日は何となくいつもとは違う道を歩こうなんて事を考えながらイヤホンを耳にさしプレイリストに入っている全ての曲をシャッフルリピートに設定して再生した。

いつもはあまり聴かないような曲を4曲聴いた辺りでとある一件のお店が目に入る。

少し古めの喫茶店の様な外観をしているこの店は深夜2時にも関わらず明かりがついていて、よく見ると小さめの文字で扉に「やってます」と一言書いてある板が掛かっていた。

「こんな時間にやってる店ってなんの店だ?」

ヤバい店なのかもしれないと思いながらも僕は甘い蜜に誘われる蝶の様に、炎に自ら飛び込む虫の様に店の扉を開いた。

カランカラン

「いらっしゃい。」

扉を開けるとすぐ正面にカウンターの席が並んでおりその奥には60歳ほどの白髪混じりの紳士が微笑みながら立っていた。

「お客さん、ここは初めてだね?」

「はい。」

僕はさしていたイヤホンを外しながら頷いた。

「ここは…なんのお店なんですか?」

続けざまに僕は尋ねる。

「ここはね、おもいでやと言って人の思い出を売り買いするお店だよ。」

紳士は微笑みながらそう答えた。

思い出屋…?この紳士は一体何を言っているんだ?やはり危ない店だったのか…?早く帰ろう…。そう思い店を出ようとした時、異変に気がついた。

「扉がない…?」

さっき自分が入ってきたはずの扉が見当たらない。確かにそこにあったはずの扉は綺麗さっぱり消えてただの壁になってしまっている。

今自分は夢を見ているのかもしれないと思い腕をつねってみるけれど、痛みは感じる。これは夢ではない。

「買うにしろ買わないにしろ、この店に来たという記憶は売ってもらう決まりになっているんですよ、それまでは出られませんよ。」

現実が受け止められず突っ立っている僕に紳士は申し訳なさそうに声をかける。

「折角だから何か思い出を買っていきますか?」

紳士は続けて言った。

紳士の言う事が本当であるのならば僕はこの店に今この瞬間の思い出を言わば記憶を売らなくてはいけないらしく、扉が消えている事からもこれは嘘ではないのかもしれない…僕は一旦冷静になろうと一番端のカウンターの席に腰をかける。

「いくつか聞いていいですか?」

僕は疑問に思っている事を確かめる為、呼吸を整えて紳士に話しかける。

「ええ、いいですよ。」

優しい笑顔で紳士は答える。

「思い出って幾らで買えるんですか?」

普通では買う事のできないものだ、さぞかし高い値段であろうし、大学生の僕はおそらく記憶を売る事しかできないだろう。

「お金じゃないんですよ、寿命で思い出を売り買いします。」

紳士は優しい笑顔のまま、そう答えた。

背筋が凍った。寿命で思い出を売り買いするなんて事が可能なのか…?確かに言われてみれば思い出と時間はイコールで結び付くかもしれないし、丁度いいバランスなのかもしれない…そのレートにもよるが…。

「1番安い思い出はどのくらい寿命を払うんですか?」

僕は恐る恐る紳士に尋ねる。

「1番安い思い出ですと2〜3分から、高くても2.3日ですかね。」

驚いた、予想とは裏腹に思い出とは意外と手軽に取引できるものらしい。

「思ったより安いんですね。」

「思い出ですからね、ぼんやりしていてはっきりしていない、一つの心の支えの様なものなんです。ですから楽器を弾いている思い出を買っても今の自分が楽器を弾けるようになる訳ではないですし、あまりにも自分とかけ離れた思い出ですと、定着せずに無くなってしまう事がありますので気をつけて下さいね。」

紳士は笑顔を崩さない。

「…思い出を売る場合、悪い思い出も売る事はできるんですか?」

この店に来た、という良くも悪くもない記憶を売る事が可能であればきっと悪い思い出も買い取ってくれるに違いない、僕はきっと良くない事をしようとしている、ただ何度もフラッシュバックする嫌な思い出を記憶から切り離す事ができるかもしれないのだ。

「そうですね、可能ですよ。ただ、思い出を売りすぎると人格が変わってしまう場合がありますので気をつけて下さいね。」

笑顔を崩さない紳士が恐ろしく見えてきた。この人は一体これまでどれだけの人の思い出と寿命のやり取りをしてきたのだろうか、何故こんな事をしているんだろうか、思い出屋と同じくらい彼の事が気になるがそこは踏み入れては行けない領域な気がした。

「だったら…僕が大学受験に失敗した時、友達に言われた言葉の記憶を買い取ってくれませんか?」

僕は弱い人間だ、よくフラッシュバックする記憶を試しに売ってみることした。

「わかりました、でしたらこのヘッドホンを付けてもらえますか、内容を確認します。」

僕は少し躊躇ったが扉がなくなり帰る事ができなくなってしまった今、後に引く事はできない。紳士から渡されたワイヤレスのヘッドホンを耳につける。

フワッとするような、立ちくらみをおこした時のような感覚が一瞬僕を襲う。紳士はノートパソコンで何やら僕の記憶らしきものをチェックしている。記憶すらもデータで管理しているのかと驚きつつも僕は意識を何とか保つ。

「確認できました、この思い出でしたら5分の寿命と交換できます。よろしいですか?」

悪い思い出もなくしてもらってそれに加えて寿命を伸ばしてもらえるなんてこちらにしか利が無いような気もするが…。細かい事を考えるのは辞めた。

「お願いします。」

「でしたらこの店を見つける前から今までの12分間も同時に交換してしまいますね、では始めます。」

紳士が慣れた手つきでパソコンを操作する。先程までの優しい笑顔が険しい顔つきになっている。

「それでは、またの御来店をお待ちしております」

その声を最後に僕の意識は飛んだ。


日課にしている散歩、今日はもう帰ろうと来た道をそのまま歩き始める。深夜2時すぎ、この時間明るいのは自販機と街灯くらいで、その暗さが良い。また明日は違う道を歩こうか。



深夜2時ごろ、今日も僕は日課の散歩に出かけていた。

今日は何となくいつもとは違う道を歩こうなんて事を考えながらイヤホンを耳にさしプレイリストに入っている全ての曲をシャッフルリピートに設定して再生した。

いつもはあまり聴かないような曲を4曲聴いた辺りでとある一件のお店が目に入る。

少し古めの喫茶店の様な外観をしているこの店は深夜2時にも関わらず明かりがついていて、よく見ると小さめの文字で扉に「やってます」と一言書いてある板が掛かっていた。

「こんな時間にやってる店ってなんの店だ?」

ヤバい店なのかもしれないと思いながらも僕は甘い蜜に誘われる蝶の様に、炎に自ら飛び込む虫の様に店の扉を開いた。

カランカラン

「いらっしゃい。」

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