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わたしとスポーツとプロティアン

第71号(2022年9月7日)
北村ゆたかさんからバトンを引き継いだ美鈴です。
お名前の通り、ゆたかなキャリアを持たれる北村さんのお話。
「豊かさ」とは…を改めて考えながら、私のストーリーを紡ぎます。

「あれから一年」というお題をいただいて
改めて、前回のnoteを読み返しこの一年を振り返りました。
まさしくプロティアン
変化続きの一年間でした。

娘の誕生日前夜に書いた初note
夫が単身赴任で、ワンオペが続いていた一年前
娘との約束で、二人でホテルに泊まろう!と約束して、実現した日でした。

あれから一年(+1か月)の月日が流れました。

一年前に娘と二人で住んでいた場所には、もういません。
一年前にもっていた名刺は、もうありません。
一年前に住んでいた風景とは、全く異なります。
一年前に生活していた都市空間にはもう住んでいません。

今は、家族3人、犬一匹で賑やかに生活しています。
今は、名刺を複数持って、仕事をしています。
今は、自然環境豊かな地方の街に住んでいます。
今は、新しいコミュニティの中で新しい仲間と共創しています。

まさしくプロティアン度が加速した一年でしたが、
目まぐるしい変化の中でも、変わらない普遍的なモノもありました。

今も、変わらずに交流できる仲間
今も、変わらずに私の知的好奇心を掻き立てるもの
今も、変わらずに愛しいと思えるもの、場所、ひと、コト
今も、変わらずに「スポーツ」に向き合う毎日


去年の夏は、そう、世界的なスポーツイベントの真っ最中でした。
このスポーツが、VUCA時代の社会にどんな役割を果たし、
大義が薄っぺらな言葉だけではなく、生活者の実感に変わっているのか
この一年では、その変化を私は分かりません。

長くスポーツに関わるお仕事のご縁をいただく身として
個人的には「スポーツ=夢・感動・素晴らしい」の構図をいつも疑問視しながら
スポーツ〇〇というものを、基本、斜めに見てしまう私ですが、
離れても離れても、私の前にはいつも「スポーツ」があるのも事実です。

スポーツと言っても、人それぞれに「スポーツ」の定義があって、狭義広義で使われています。

一般的に日本で受け入れられているスポーツは、競技性(Sports)を想起させ、競技力向上を目指すスポーツ、アスリートに限定されてしまう傾向があると感じています。
元々、明治期以降に外来文化として輸入された近代スポーツは、日本の国威発揚、戦後復興、従順な身体の形成のために教育の中で体育として使われ、高度経済成長を成立させるための社会的装置であったことが知られています。
ワークの中にもスポーツ的な身体の酷使、精神の鍛練、指揮命令への従順性が強く残り、ワークとライフのバランスはおろか、仕事のためのライフであるかのような日本人の身体は、このような体育的スポーツの名残であると考えられます。

一方で、19世紀後半のイギリスの産業革命の頃に開発された「スポーツ」は、労働の効率性から生まれた「余暇」の中で、労働から離れた非日常を気晴らしとして楽しみ、遊び(遊戯性)を重視した「スポーツ(Sport)」でした。日本人にとって、スポーツを遊びとして捉えることがが難しいのは、体育的なスポーツによって作られた気質によるものだと感じています。

それでも、産業革命から、時代は進み、現代に生きる私たちは、今はSociety5.0と呼ばれる時代。コロナのパンデミックがテクノロジーの社会浸透を加速させ、ワークとライフの境目を見事に曖昧にしてくれました。

ワークする場所は、職場というハコの中に限定されることはなくなり、一緒にワークする人も、社会的ラベルで繋がった人だけではなくなりました。これまで交わることがなかったような人や業界とも、いつの間にか繋がって、いつのまにか共創している・・・そんなことも増えました。
ワークとライフに時間の区切りはなくなり、余暇が仕事を生み、仕事が余暇を生むような感覚になります。

余暇として存在したスポーツ(Sport)の価値も変わるはず。
これからの時代、人々はスポーツに何を希求するのか。
それが私の変わらぬ好奇心であり、仕事の原動力でもあります。

私は今、東京から居を移し、九州は佐賀県に住んでいます。
信州生まれの私が九州に・・・という新しいタグを持ちました。

都心にいると、あえてナチュラル志向を宣言して、ビオ食品を選んだり、自然豊かな場所を求めて、休日を過ごしたり、分離した自然に意図的にアクセスしなければ都市生活の中に自然を内包することは難しかったと感じます。

今は、自然の中に生活があり、生産地、生産者が見える食に囲まれています。逆に都心生活で快適だったと思うテクノロジーの活用は少なく、私なりの快適さを整えるには、少し物足りなさを感じることも事実です。

 自然とテクノロジー
 都心と地方
 ワークとライフ
 男性と女性
 官と民
  等々…

これまで対極に存在してきた物事が
それぞれのアイデンティティを保ったまま重なり合い、
融合するところに生まれる新たな価値と役割があると確信しています。

異文化の接触は、時に爆発的なエネルギーが生まれ、カオスが広がりますが、その流れを整えることで、エントロピーの中に美しい秩序ができる。

それはスポーツで、対戦相手をライバルと認識しながらも、
主体的な行為者としての交わりにより、最高のパフォーマンスが生み出される過程に似ている気がします。

何が言いたいかというと、スポーツは、いつも行為者(プレイする身体)がいなければ成立しないということ。
キャリアを考える時、いつも私はスポーツに置き換えるのです。
未来に向かって、今、何ができるのか。
その結果、辿り着いた未来に後悔はない。

離れても離れても私の暮らしの中には、いつもスポーツがあって、
それはプロティアンそのものの行為であると実感しています。

山々の曲線美、緑が光る田畑と青空
今日も、いま、ここで
この自然の一部であることを
全身で味わえることに感謝します。


次は、空手、スキー、キャンプ、BBQ
まさしくSport人生を送る
渥美さんにバトンを繋ぎます。


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