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絶世の美女・万葉歌人『額田王』は、ペルシャ系美人   2.新羅に定着していたイスラム人

 すでに前秦の頃のローマ帝国から朝鮮半島に至る文化や人的交流の可能性については前稿1章で明らかにした。
 実際に朝鮮半島、取り分け新羅との交流が緊密に行われた天武天皇の時代から持統天皇の頃の新羅について興味ある記事がある(「ローマ文化王国 新羅」由水常雄著 新潮社)。
 それは845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した「王国と道路綜覧」と言う書物である。新羅に関する記事として、
『中国の向側に新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している。そこには多くのイスラム人が定着していた。重要な産物としては、金、人参、織りものの生地、鞍飾、陶器、剣などがある。』
この記事で描かれている新羅の国の状況は三国時代(4世紀~7世紀)の新羅の状況にあまりにも近い内容を示しているばかりでなく、『日本書紀』に書かれた新羅の内容にも相通ずるものが有ることに気付く。
  この『王国と道路綜覧』は、奇しくも、新羅の物産が西方世界の人々にとって、極めて大きな魅力となっていたことを如実に記録したものであり、それ故にこそ、新羅のそうした魅力的な物産を目当てにして、多くのイスラム人(アラブ人)たちが、この国に定着して、商行為を行っていたことを、付記しているのである。         ★★以上で引用了。
 現代の我々が想像する以上に世界は狭く、物の流通が盛んに行われ、人々が東西に往来して、また移住・定住していた。まさに驚くべき事実である。
 さて1章で推測した『額田王はペルシャ系』に現実味があるかどうかが、上記の内容に基づくと極めて信憑性も認められる。
 『額田王』(生没年不詳)は、7世紀前半頃~7世紀後半に活躍した人物である。これはまさに朝鮮半島における三国時代と一致するのである。

額田王歌碑

この頃のイスラム世界は下図に示すようにサザン朝ペルシャをも含む広大な地域であった。7世紀頃のウマイヤ朝でも同様である。

イスラムの領域
ウマイヤ朝時代の領域

このような広大な地域から朝鮮半島三国時代の新羅にはイスラム人(古代中東、ギリシャ、ペルシャ帝国など)が訪れて、一部は定着していたことが分かる。
 『額田王』について『ペルシャ系』とこれまで述べているが、一つの事実がある。ペルシャ美人と言うのは、黒髪の持ち主である。ギリシャ系などはこれとは違っているのである。
 また『額田王』が『イスラム世界』の家系だとすれば、中国式年号は持っていなかったであろうから、生没年が不明であることも理解できる。
 かくも小さいさい世界の中で人々が商いをし、技術を高めて東西に流通していた、さらにアジアの東端にある日本にも当然のように物・人の動きが想像以上にあったのである。


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