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学校に行くこと、行かないこと。学校が無くなって救われる子、苦しむ子。

 感染対策で学校が休みになった。全国の小中学校は3月から休みになって、だいたい2ヶ月、夏休みより少し長いくらいを子どもたちは自宅で過ごすことになった。休校解除がされた今も隔日での登校や午前授業などが続き、家にいる時間は長い。


 私自身は学校が好きな子どもだった。授業はあまり好きではないけど部活と友達が好きで、行事や放課後に時間と労力を注ぎ込むような子どもだったし、家にいるのが得意ではない。外出自粛をしている今も、家族と四六時中一緒にいるのはどちらかというとストレス。学校行きたい、友達に会いたい、ばかり考えている。その一方で、中高時代の友人のことが頭に浮かんだ。私には、学校に馴染めなくて不登校の結果高校を辞めてしまった友人がいる。あの子が今高校生だったら、この休校に救われていたんじゃないのかなと。
 その子は頭が良くしっかりしていて、多くは無いけど友人もそれなりにいた。ただ性格的に集団生活が苦手だったのと、体質の問題で朝起きれないのと体調不良とでうまく学校に行けなかった。休んだ分だけ勉強にも追いつけなくなり、それが積み重なった結果、高校二年生で学校を辞めた。小中高と学校に通って大学に進学し大人になることをさも正しいかのように信じ続けている人間は周囲にもたくさんいたし、いじめがあったわけでも無いのに不登校になることを「なんで?」と無神経に疑問視する声もあった。でもその子に限らず自らの選択で別のレールを選んだ子を私は何人も知っているし、それが間違っているとも思わない。あの子は私などよりよっぽど地頭は良くて思考の速く回る子だったし、勉強じゃなくてもたくさん得意なことがあって、家族ともなんだかんだ良好な関係を築いていた。だから別に学校というフィールドに無理に居なくても、考えた上で幸せになってくれたらそれでいいんじゃないかなと思う。
 そうでなくても学校に行きたくない子どもたちは色々と想像できる。各々に事情や背景があるからこそそう思うのだろうし、奇しくも「学校に行かなくていい」と全面的に認められたこの状況に救われた子たちも少なくないのではないだろうか。


 逆に言えば学校が無くなったことで苦しむ子もいる。家庭に居場所が無かったり、関係は良好でも例えば勉強する環境が無かったり。学校は教育現場であると同時に、子どもの居場所を提供し、机や本、時にはインターネットといった環境を提供する。給食や学食、購買といった食の提供もあるだろう。それらが無くなって、同時に図書館などの公共施設も閉じられ、家にいることを余儀なくされた子どもたちはどうなるだろうか。巷では虐待やネグレクトの増加が報じられている。子どもからの相談だったり、逆に親自身もストレスがかかっていることで自分が子どもに手を上げてしまうことを恐れている声があるという。休校前よりも家庭内の問題が深刻化する可能性は容易に考えられる。


 学校が無くなって救われる子、苦しめられる子。真逆の問題がこのコロナ禍で浮かび上がってきたように思う。子どもたちがこの休校で何を感じたのか、それに寄り添っていくことが必要だろう。もっと言えば、遠隔授業など「学校に行かなくても学べる」体制が場所によっては整いつつある。学校は勉強だけをする場ではないので一律にそれでいい、とは言い切れない部分もあるが、N高といった通わずに学ぶ例があるように、これからもっと学校に行くだけが正義ではないということが広く認められるようになっていったらいいなと私は思う。まずは教育現場に立つ人間が、個々の子どもたちにとってどんな形式が一番合うか、合わない場にいるのならどうして合わないと彼らが感じてしまうのかということを想像することが必要なんじゃないだろうか。

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