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対談/黒瀬陽平×岸井大輔 | 家船特集

2020年2月3日、東京・代々木にて

黒瀬:瀬戸内国際芸術祭(以下瀬戸芸)2019の会場、女木島でKOURYOUさんが「家船」を作られたわけですが、あの場所は僕やカオス*ラウンジにも思い出深い場所で、以前自分達も同じ場所で展示をしました。 瀬戸芸はスケールの大きな芸術祭で、広いだけでなく島々に別れており、個々の島が独自の文化圏やコミュニティをもっていて、それらを巡ること自体が芸術祭の体験だという所に重きがある。ですが、瀬戸内の島々を観光として巡り歩く人たちの体験に対し、出品作品はどのようにその体験の中へ割り込むか、作品を鑑賞している瞬間だけでも体験のリズムを書き換える事が出来るか、という高いハードルがある。お客さんの数はすごく多いけれど、フェリーに乗って一斉に来て、帰りのフェリーの時間を逃すまいと足早に帰ってしまう。女木島のような小さい島は滞在時間も短く、作品のリズムに付き合わせるのはとても難易度が高い。

黒瀬:KOURYOUさんが瀬戸芸に呼ばれたと聞いた時、ふさわしいと思いました。KOURYOUさん独自の世界観と瀬戸内の風土が上手く合わさればいい作品になるだろうと。プラン段階でも拝見しましたが良いプランでした。ですが実際見た時、個々の作品、オブジェは間違いなく良いと思うものの、展示全体として上手くできているかと考えるとちょっとひっかかる所があった。
KOURYOUさんは「地図」の作家です。地図をベースにして世界を描き、観客はKOURYOUさんの地図をインストールすることで世界を理解するのですが、「家船」ではその地図制作が抜け落ちていた感じがする。つまり瀬戸内の既存の地図に、KOURYOUさんのフィクションがのっかっている。いわきでの新芸術祭では、現実のいわきに対して、新しいいわきの地図を作成し、オーバーラップさせていましたが、瀬戸芸ではそのような介入があまり無かったのでは。入口に掲示していた年表は、あれはあれで興味深いものでしたが、東アジア史を扱っているために、なかなか改変に苦労しているように見えました。地図不在のままでオブジェや「家船」の空間を見ることの難しさを感じてしまった。

岸井:確かに、新芸術祭のKOURYOU作品は、あたかも作家がいわきの現実に介入しているような錯覚を与えるところが魅力でした。KOURYOUさんの魅力は地理や作家を扱っているにも関わらず、それ全体の基盤をKOURYOUさんが生み出しているかのように感じる所だけれど、「家船」はそこまで到達していないのではないか、と。

黒瀬:KOURYOUさんが作品としてウェブサイトを作ること、インターネットの起源である「メメックス」や、ヴァネヴァー・ブッシュに対して関心があることは、地図を作り変える関心とピッタリ一致しています。我々の国土感覚、地理感覚は、今たまたま持っているテクノロジーに規定されているにすぎない。KOURYOUさんがヴァネヴァー・ブッシュに関心を持っているのは、現在のインターネットもまた、たまたま現在のかたちになっているだけで、別のあり方もあったはず、と考えているからですよね。KOURYOUさんが地図や歴史に介入する場合も、同じ関心に基づいているのだと思います。オブジェとしての「家船」は良いけれども、それを支えるインフラ部分の完成度や作り込みが、過去作に比べて低いかなと。

岸井:その点は同感です。今回僕は、過去作とは異なる挑戦作品と見て楽しかったので。

黒瀬:ただ、「家船」の外を歩いて回り、側面に目があるのに気づいた瞬間、あの家自体が船であると同時に、一体のキャラクターになっていると分かった。その瞬間は感動的でした。物理的にあのスケールで、彼女の作品が現実にあらわれたことは今まで無かった。

岸井:インターネットから現実に出現した。

黒瀬:ただ、その時の驚きと、中に入って展示を見る体験があまり噛み合わなかった。

岸井:僕は彼女の絵を見る体験と「家船」の中を歩く体験は近かった。ディテールが気になると連関して、絵の中を視線が辿っていく。その先で伏線が回収されるような体験をし、他の見え方に影響が及ぼされる。絵画鑑賞ではよくあることでしょうが、黒瀬さんのいう偽の地図がインフラにあるのが独特です。「家船」は空想地図の中を歩きまわっているような体験ができた。例えば二階の屋根裏の一番奥に腐ったようなウレタンがあって、一階に降りてウレタンが指差しているものが分かると、あれは龍であり生き物なんだと直感的に気づくのですが、二階から一階への30分ほどの移動の記憶が編集され、意味が変わる。

黒瀬:「家船」の内部は、博物館の作り方を意識していたでしょう。過去にあった出来事の痕跡を収集、保存し、展示することで、現在との連続や非連続を構成する。たとえそれがフィクションであったとしても、過去の痕跡を現実と関連させて陳列することは博物館的であり、「家船」は架空の博物館でした。しかし、博物館的なインスタレーションに挑戦することと、今までのKOURYOUさんの表現の核がどうつながっているか、見たかった。そこのつながりが見えなかったので、まとまりがないように感じられて、つめこみすぎなのでは…と思ってしまった。まあ、カオスも同じような失敗を経験しているので、自戒を込めてもいるわけですが…。

岸井:黒瀬さんがつめこみすぎとダメ出しをするのは面白いね。

黒瀬:大前提として、つめこむだけの内容があるのは素晴らしいですよ。

岸井:黒瀬さんは世界観を作ってそこからはみ出すまでつめこんでいるように見えるキュレーターだからね。

黒瀬:カオスも同じ場所でやったのでよく分かります。

岸井:博物館的。「家船」は昔に開催された芸術祭の残留品、昔の遊園地の残りものであるという設定が強く意識させられます。「遺物」ですね。彼女の作品は遺物を見せられているようにも感じます。例えばクリックスピリットは、遺跡を歩く体験に近い。しかしバーチャルにあるのと現実にあるのでは遺跡の意味は違いますね。「家船」は現実なので、昔、ここで、なにか起きていたことになる。それが博物館的に見えてしまっていただけでは。

黒瀬:外から「家船」の顔を発見したときに遺物感を感じました。あの作品全ては遺物かもしれない、本当に「家船」が乗り上げたのかもしれないという想像を喚起する力はありましたが、中の展示を見ている時には、これが博物館であるならその作りとしてどうなのか、また個々の作家がどの程度この世界観のことを考えて作っているのかなど、細かいズレが気になってしまいましたね。

岸井:なるほど。僕が「家船」を重要な作品と感じるのは、2000年代と2020年代の間に出現した作品として記憶されるべきだと思うからです。僕は東京のアートシーンでは、コレクティブが終わり、作品再考が始まっていると思う。「家船」はその境界の作例といえるのではないか。2010年代は、アートの可能性を集団性に見出すあまり、イベント化し、Twitter等のSNSで何かをなすのが中心になったけど、コミュニケーションに終始すると、政治性に単純に回収されてしまい限界がきた。
僕は2010年代に関係の中で見出された技術や美意識を、関係から切り離して作品にしていくべきだと思います。「家船」は2000年代、2010年代の遺跡ではないか。女木島や瀬戸内や東アジアの歴史は仮託にすぎない。黒瀬さんが指摘したように「参加作家はどのくらい全体のことが分かっているのか」「キュレーションと作品の深度が違う」というのが、パッと見分かる形で修正されずに残っていることで、かえってはっきり示された。

黒瀬:イベント化するアートシーンと、コミュニケーション化する作品の流れが加速した2010年代に対して、人や行為を消去し、作品だけを残す「家船」が批評的に見えるのはよく分かるし、そういう評価は可能だと思う。とはいえ、僕はKOURYOUさんが、2010年代のアートシーン全体を瀬戸内海の偽史に変換し、模型あるいはジオラマとして残す、といったアイロニーをここまで全力をかけてやるような作家ではないと知っているので、僕はそういう読解はできませんね。もちろん、批評としてそう言う事は可能ですし、あいちトリエンナーレで傷ついた観客が、「家船」にたどり着いて癒やされるというのも分かりますが。

岸井:瀬戸芸の観客も一定数瀬戸芸に傷ついていると思います。「家船」は、遠い未来から2019年の芸術祭を見る視点を与える。そして、別の可能性に開く。それこそが芸術の仕事です。

黒瀬:遺跡や遺構を、アナクロニックに現代へ出現させることで、むしろ現在や未来に対して示唆を与えるアプローチは一定数あって、同じ瀬戸芸のプロジェクトでも、犬島の柳幸典さんの犬島精錬所美術館なんかがありますね。

岸井:いまあらためてインターネット的と博物館的が止揚されないと、2000年から2020年までのアートが歴史づけされなくなる。

黒瀬:問題設定としてはわかります。しかし、現行のインターネットが採用しているネットワークと人々の挙動を、現行の博物館的なシステム、知の殿堂、知の体系やデータベースと重ねようとするのは非常に危うい。「家船」の発想はかなりそれに近いのでは。

岸井:危ういのはわかります。

黒瀬:今回の見せ方は、博物館的な方向に力が入っているように見えたので、細心の注意を払って仕掛けをした方がよかった気がするんです。

岸井:キュレーションの権力の話でもあります。博物館的なものが平等に見せかけるのは、実は近代的な、たとえば植民地主義的な権力のあり方。権力の隠蔽にすぎません。「家船」では参加作家がそれぞれに作品を作ったという紹介がなされていたようだけれど、それは博物館的な平等ぶるやり方です。人間関係があれば権力はある。
「家船」は、コミュニケーションの混乱や暴力と感じられるキュレーションがあったとしても、その記憶が遺物となり漂着した先でまた次の世界が立ち上がるだろうといっていると見ました。2019年の権利の争乱の廃墟が示され、これからどうするかという問いかけがされる。博物館的に設定された平等ではなく、戦いの結果、生成した平等に見える。

黒瀬:キュレーター的な立場の人が参加作家に対して寄り添い、ケアしながら作家のやりたい事を汲んで作り上げていく事と、それぞれの作家の差異がほとんどなくなるような、遺物と化した状態から展示を判断する、作る、という視点は全く両立し得る。その2つの視点がなければ良いキュレーションではない。それに関していえば、KOURYOUさんの「家船」にはそれがあった。つまり、キュレーションの暴力は全く感じなかったです。他の人がそういう話をしているのを見た時に、初めてそう見る人がいるんだなと思ったくらい。僕も同じようなスタイルだからかもしれないですが、作品を見れば、KOURYOUさんが個々の作家とすごくコミュニケーションを取ってることくらい分かるし、その一方ですごい暴力性もある。同時に、みんなが博物館に入って遺物のようになってしまうという見え方も共存しているわけで、特に問題ないと思いますけどね。

岸井:KOURYOUさんが参加作家に指示されて描いているものもあるそうです。では、博物館的なものというのはどこから持ち込まれているように感じました?参加作家がやっているように感じた?

黒瀬:それは参加作家がやっているとは思わなかったです。全体の構成を決めているキュレーターですね。

岸井:クレジットにKOURYOUという名前のみがあって、瀬戸芸のフォーマットで作家と名指されていますが、そんなこともどうでもいいことです。たしかに「家船」はKOURYOUの名前で出品されていたけれど、全体の構成を決めているかは作品からはわからない。とすると、どうやって博物館的にしていると感じたのでしょう?

黒瀬:一つはプレゼンテーションの仕方と、それを支える最初のコンセプト、つまり過去にこのようなことがあった歴史という偽史を作り、人々へ説得し、偽史を証明するため物を並べるという事は、博物館の基本的なやり方です。全ての博物館は、程度の差こそあれ偽史ですよね。しかし、偽史を偽史として見せても仕方ないので、博物館を作る。ものに語らせる。遺物によって偽史を裏付ける。

岸井:そういえば、陸奥賢さんは年表と「家船」の中を往復して見ており、完全に博物館として見ていました。

黒瀬:僕はすぐに年表に気がつきましたが、最初に見なくても大丈夫だと思って、最後にじっくり見ました。

岸井:僕もそう。

黒瀬:KOURYOUさんとしてはただの博物館にならないよう、テーマパーク的な要素を入れていたけれど、根本のところで博物館的な衝動があったのでは。

岸井:なるほど。それも実体化したことが関係してますね。ネット上や絵画だと年表が博物館的には機能せず、ほかの物と同格に並ぶ。

黒瀬:やばいネトウヨの検証サイトのようになりますよね。ネット上だと、よくも悪くも博物館的権力は正常には機能しない。

岸井:歴史資料館と美術館の違いもありますね。どっちもミュージアムであり働いてる権力構造は同じとしても。

黒瀬:偽史に対する許容度の違いだと思いますね。歴史家であれば、明らかな偽史は倫理的にやってはいけない。しかし美術家であれば、ある種のフィクションとして許容する振る舞いが許される。その違いは大きい。

岸井:証明されたと感じる時の感覚も違う。

黒瀬:「こんな歴史があったのか」と納得するのか、「こんなフィクションなのに、事実のように感じるのか」と思うか。

岸井:後者みたいな事は、KOURYOUさんの作家性やこれまでやってきた事と関係がない?

黒瀬:いや、偽史をどうやってリアライズ(現実化)するか、歴史化していくかというその点においては連続していると思います。ただ、博物館的に遺物を並べるという手付きに関しては、やはり過去作との連続性が見えづらい。今までは平面を中心とした構成を通じて、半遺物、半データ、半物質を組み合わせ、独自のネットワークを作っていたと思います。

岸井:「家船」を移動させようとしていると聞いています。移動すると、作家性がはっきりしそうですね。

黒瀬:個人的にはそこに留まるよりも、移動していく方が、彼女の今までの作品に近づくのではと思います。

岸井:無論、移動は残すための苦渋の選択でしょう。だけど、そのために作り直さないといけない。遺物でも、生成し変身しうると示されることになれば、意味が変わる。黒瀬さんはKOURYOUさんが時代の表現として「家船」を作っている訳ではないだろうと言う。そうでしょうが、作家は意識しないで作る事はあるわけで。僕は「家船」を鑑賞している時も、これはここで終わらないだろうと思った。

黒瀬:今のタイミングで批評を書きたくない、と言ったのはそういう事です。このあと移動するプロジェクトに入って、そっちから書いた方が、おそらく今回の一作目だけを見るより分かる可能性が高いと思う。
残すかどうかについては、僕たちも全く同じトラブルを経験して、僕たちはそこでやめた。残しても問題ないようにコンセプトを作り、管理も何もしないし放ったらかしにするだけだから、残しても大丈夫だと説得しようとしたけれど、ダメだった。それに対して「家船」は移動する事に必然性がある。もちろん、あの場所に留まっても良い。遺構として作っているから、コンセプトの中で矛盾はしていない。留まる事にも移動する事にも意味がある状況を作っていて、地元の人が合意しなかったから物語が進んでいる。

岸井:キュレーターが作家に対して、あるいは各作家同士がお互いに対して配慮=キュレーションしあっているのも作品から見れました。「家船」は、対等の殴り合いによって生まれた「線」が見えている。誰かが書いた線というより殴り合いの痕跡によって書かれている。動いている状態のまま形になっているということです。さらに、移動して再設置ということになれば、物体だけが移動することはありえないので、その葛藤ごと引き継がれ、また新たな線が生まれるでしょう。ひょっとしたら、KOURYOUさんはそういう作家なのかもしれない。殴り合いの先は究極的には世の中で、あそこに留まるかどうかは本人だけに決められる事ではない。自立した作家像というイメージで見るならば失敗だけど、常に殴り合いでイメージが生成されると考えれば、動かされたという事も含めてKOURYOUの重要な一部。瀬戸芸を振り返って、あれはダサかったねと言えるでしょう!!

黒瀬:初期状態ですね。

岸井:初期状態、プロトタイプ。KOURYOUさんは常に準備状態を見せているとも見えます。今回は、終わりにしなくて良かったねと、後々になって言えたら。

黒瀬:もし住民と合意が取れていたら、そのまま遺構として最適な形を探していくという「常設ルート」があったかもしれない。でも僕は、そのルートが無くなったことにこそ意味を見出したい。

ー「家船」の参加作家の個別作品についてお聞きしたい。

岸井:あれを個別作品だと分かるのは知っているからですよね。内輪だからですよ。色んな人が関わっているんだろうなとは感じるが、作品毎にキャプションもない。どれが誰の作品だという鑑賞方法で語ってはいけない作品です。

黒瀬:博物館や遺構の形式でプレゼンテーションしているわけだから、ここで固有名をとりあげて語ることは、全体のコンセプトと齟齬がある気がしますね。

岸井:僕が参加作家を感じたのは「家船」の裏の壁の上に立って後ろ側から見た時。家の後ろに巨大な車輪などが収められていて面白かった。2000年以後、コレクティブやインスタレーション、サイトスペシフィックのような事をやってきた20年間で編み出された美意識の一つに、物をどう片付けるかというのがある。一般にはインスタレーションの技術と呼ばれていますが、独特ですね。というのも、普通、物を片付ける場合、再使用するために椅子や机を、あとで使いやすいように積むんだけど、展示では、原状復帰できる範囲で壊さないように、しかし見て美しく収める。無関心性というやつですね。そこに、従来のインスタレーションやアッサンブラージュなどとは違う美意識が構築されてきた。ホワイトキューブならいらないものはバックヤードに置けばいいのですが、バックヤードのない地域型のアートプロジェクトの中で培われてきた美意識でしょう。その文脈から語るべきアーティストは結構いるんじゃないかと僕は思っている。日比野克彦さんや田中功起さんの見所は、極端にいうと、メインっぽく置かれた展示や映像ではなく、会場にあった椅子を積んだはじっこみたいな所だと僕は思う。「家船」は裏側まで格好良かった。「家船」は、KOURYOUさんだけでなく参加作家全員が空間に対する配慮があった。そうでないと裏側まで「家船」になってるという事は起きなかったと思う。一方的なキュレーターと従うスタッフの関係なら裏側は散らかっていたはずです。みんな戦ったんだなと。その事に敬意を払って、これは誰の作品だなどと言わないように気をつけている。みんなが全体を作っている。ゆえにKOURYOU作品だとも言わないのが礼儀ではないか。

黒瀬:別の場所にクレジットとして明記するのが一番良いと思います。あの場所で固有名が作品と対応するように分かってしまったら、全体のコンセプトから外れてしまう。生きた博物館になってしまう。生きた博物館ではないという事が重要なので、記名方法は今のやり方で全然問題ないと思います。


ー今日はKOURYOUさんがこの場に立ち会っているので、ここから作家を交えて議論してもらいます。

KOURYOU
:「家船」は今までの模型作品の発展形というイメージです。模型に「時間」が入ってる。動く模型というか。その連続性がどう見えたかをもっと聞きたいです。

黒瀬:かなりスケールがでかいですよね。これまでのKOURYOUさんの作品の多くは、やろうとしている内容に比べるとかなりコンパクトなオブジェになっているんですが、見ている我々としてはこんなに小さいのにこんな複雑な情報が入るんだという驚きがある。そしてそのオブジェと平面作品との対応関係を見る鑑賞過程があるのだけど、その過程がなく、いきなり「家船」になった事に対して驚きがあります。

KOURYOU:模型に時間と共同制作、2つのチャレンジを同時に入れた感じです。あのモチーフにはそれが必要でした。今までの模型作品でリンク先を自分で描いていたものを他の作家に託すことで、部分が主体性を持つというか。動いている。ウェブサイトにも近い。

岸井:「家船」自体が模型なんですか?

KOURYOU:模型のイメージです。

岸井:模型というからには完成形がなければいけない。

黒瀬:それなんですよね。

岸井:あれが模型だとすれば完成形は何になるんですか?あれを僕は実体と思っていた。

黒瀬:実体として作ってるように思えるんですよ。あれは記念館だし、遺物だから。

KOURYOU:実体と入れ子状になっている模型というか、流動していく模型というイメージです。その形式に初挑戦するには、ちょっと最初から大きすぎた感はあるけれど、結構近いものが出来た。

岸井:最初の黒瀬さんの批判点は、模型に見えないと言い換えられますね。その後議論で出てきた、博物館、遺物というキーワードも、模型ではないという前提に立つでしょう。模型であるとは何か、という事じゃないですか?大きいと模型でない、という事ではないですね。模型は未来の制作のためにあり、生成中なわけで、それならば今までの作品と一致している。

KOURYOU:博物館という意識は全くなかったです。そう見えたという事は模型に昇華するまでの時間が足りなかったという感じなのかな。

岸井:なら、黒瀬くんの批判であってるって事じゃん。KOURYOUさんは世界になりきっていないという。

KOURYOU:でも模型が時間を含んでいるから。

黒瀬:そうなんだけど、模型っていうものを作るためにはベースとなる世界がありますよね。この美術はバーチャルな設定であるとか、世界やインターネット空間という設定があって…というふうに、模型の基となる世界がある。

KOURYOU:それ自体も設計図、そこからとるっていうかそれ自体が設計図。

岸井:なら年表いらない。年表があった方が見やすいけど、年表があると設計図が生成中にならないし、これ全体が模型とも時間の中にあるとも言えるじゃないですか。

KOURYOU:年表自体も作品の一部である事が重要です。

岸井:作品に対しメタ視点なものも、物体となればメタであり続けることはできず、同じ時間の中にあるし、それを示したいのはわかる。でも提示位置とかからそう見えない。年表があると、そこにあるものたちが過去のものと確定しちゃうんじゃないか。

KOURYOU:年表自体も着彩しエイジングをかけて、ステイトメントとは違うものにするって話はみんなにしていて。時系列で言うと一番最後に制作し、秋会期から導入した作品です。だからあれも全部嘘みたいな?なんて言ったらいいのかな…。

黒瀬:言わんとすることは分かりますが。

KOURYOU:私の制作方法自体が、まず頭の中に全てあって、それを具現化するというものではないんですよ、元々。作る事で出来てくる。

岸井:僕の言葉だと、戯曲と上演で、上演に見えたということです。模型は戯曲でしょう。

黒瀬:模型を作ることによってはじめて、頭の中のものが出来てくるという関係が重要ってことですね。でも、今の「家船」のプレゼンテーションだとそう見えないんですよね。偽史を作っちゃってるから。偽史として世界の設定を作っておいて、その設定をいかに説得的に見せるか、という見せ方になってる。

KOURYOU:作り方は違うのに、そういう見せ方に見えたと。

黒瀬:KOURYOUさんの制作中におこっている「本当は世界は完全に出来ていないけど、こういうオブジェや作品が出来ることで頭の中の想像も出来ていくんだ」って事は偽史とは違いますよね。偽史じゃないし、博物館でも資料館でもない。やっぱり作品が主体になっていること、想像と作品が同じ立場で影響を与えあって作品が生まれていることが最も重要なことですよね。だったらやっぱり、博物館的だったことはマイナスだったんじゃないか。博物館は偽史を確定していくためのものだから。

KOURYOU:博物館という意識はなかったですが、それでもやっぱり考えるきっかけ、ベースはないといけないので、普段模型を作る時は人体の構造や心の動き、伝承、地図のレイヤーなどを重ねたりして世界を考えるんですけど、今回そのレイヤーを歴史に変えてみたって感じですかね。それでやれないかな、と。

岸井:模型を生成したいって欲望はアートでは実は王道だと思いますが、だからこそ現実的には珍しい欲望だと思うんです。多くの人は結果を示したい、完成品を、実物を、上演をしたい。集団で制作するとき、模型を作りたいのならその意図だけは統一しなければならなくなりそうですね。どういえば共有されるのかは分からないけど、作家には遺物を作ってる人が多かったような気がします。

黒瀬:鉄道模型の受容なんかを見てると、本物の鉄道が出来る前に模型が入ってきちゃって、模型から鉄道を作ってしまう、という逆転があったりしますね。

岸井:天文館の話ですね。鹿児島の。

黒瀬:それで新しいものを作ったりしちゃう。

岸井:銃、種子島もそう。実物を模型と見て、真似で、違う方法で銃を作ってしまう。それが現実を動かす。

黒瀬:模型が現実に先行する、模型から新しい現実が生まれるって事があって、広義の「おもちゃ(玩具)」のポテンシャルってそういうところにあったりしますね。

KOURYOU:私の作品は模型を上演としてみんなが見ているようなズレがいつもあって、「家船」もそうだったという事かもしれない。

岸井:模型を作るんだという意思統一がされたチームが今後出来たらヤバいので楽しみです。どんなチームか全然分からないけど、そうなったらすごい。

KOURYOU:それはどう伝えたらよいか分からないですね。

岸井:伝わったからって、やるのかという気もするし。

KOURYOU:個々の作品は上演でもいいんじゃないかなとも思っていて。上演にも模型の要素が含まれているので。

岸井:模型が提示されれば、ほかの人はそれを自分なりに現実化したくなるものです。僕の言い方だと戯曲は上演を欲望させるもの。そうして出てくる様々なオブジェ群を、再び模型にしていくのがKOURYOUさんの作業なのかもしれませんね。だから会期中、筆を止めなかった。

KOURYOU:ものすごい暴力なんですよね。だから殴り返してくれる作品が来たらすごく嬉しい。模型になってなかったとするなら、それは個々の作品のせいではなくて。この作品とこの作品が組み合わさってこの状況に来たなら、この設計が出来る、それを描き起こす、みたいな事をずっとやってた感じですかね。

黒瀬:それって、KOURYOUさんの頭の中でシミュレーションゲームをプレイしている状態に近いんですかね。人類史をシミュレーションゲームとしてやり直す、みたいな。参加作家はゲームの中の登場人物で、ここに集落や文明を作ったのだとしたら、プレーヤー、神としてのKOURYOUさんはどういうふうにフィードバックして模型化するか…みたいなことをやっている。だとしたら、プレイ中の感覚がもっと鑑賞体験として感じられたらよかったですね。結果だけを見せられている気がする。

岸井:そうなんだよね。あくまで模型を見せたいのならアンダーコンストラクション、建築中って見せ方。KOURYOUさんは夜中にこっそりやってるだけで。

黒瀬:模型になりきってない状態の作品が入っているのは重要だと思うんですよ。模型になったもの、完成したものだけが並んでいると、確定した事実のように見えるから、博物館のように見えちゃう。でも本当は、KOURYOUさんの頭の中では、それ以前のシミュレーションから作品が始まっていて、そこが見えないと全体像が見えない。

KOURYOU:どこかで区切られたものを見るしかないのでは?

黒瀬:それは既存のインスタレーションや美術展のフォーマットを気にしすぎだと思う。頭の中で起こっている重要な部分を見せる、その線引きを、KOURYOUさんは新しく拡張していくべきだと思う。もちろん失敗する可能性もあるし、こんなの見せられても分かんないよってなる可能性もあるけど、今回は出力されたものに寄せすぎだったって感じはします。まだ形になっていないアイデアたちがいかに模型になるか、模型として出力されたものがいかにアイデアに影響を与えるか、その循環関係自体を見せるべきなんじゃないかと。

KOURYOU:どうパッケージングするかですか。

黒瀬:パッケージングの発明も必要かもしれないですね。

KOURYOU:ゲームとかで作るとやりやすい問題かもですね。

黒瀬:そうかもしれない。

岸井:ゲームも面白いとは思うけど。僕は模型化と上演化、双方の失敗を見せているように見え、それが2019年の時宜を得ておもしろかった。けど今日話して思ったのは、「家船」は失敗の提示ではなかったし、それは難しいのかな、と。むしろ模型化を見せるやり方を発明しないといけない。

黒瀬:そこが次の展開なんだと思う。キツネ事件簿や、今までやった事では手を付けてない部分で、その形が発明できるか。

岸井:鑑賞のリテラシーも必要で、そのリテラシーを身に着けてもらえる興行形態も再発明するべき。実は寄席とかそうなんです。下手な覚えたての前座から見せていくのが、そう機能する。で、この10年くらい集団制作のプロセス公開をやってきたのですが、疲れたので、観客育成は一旦諦めた。またやると思うけど。

黒瀬:僕は市街劇という形で、制作過程ではなく物語の方で入ってもらおうとした。市街劇でできないことは、それ以前の関わりの構築という意味で、教育をやってるという感じかな。

岸井:教育も、そうですね。

KOURYOU:うーん物語かぁ。

黒瀬:KOURYOUさんの場合、物語を語る一番上手いやり方はマンガだと思うんですよね。最初にプランとして見せてもらったマンガはすごい良かった。もちろん誰しもが喜ぶものか分からないけど。あれはすごいKOURYOUさんの語りが良く出てる。

KOURYOU:うーん…一つの物語を作って見せたいというよりも、歴史が物語だとしたら、それを自分達で別の形でやり直してみるみたいな感じかな。どう分かっていくのか、違っていくのか。

黒瀬:シミュレーションゲームじゃないですか。歴史シミュレーションですよ。

KOURYOU:私自身は作る事ですごい色んな事が分かってくるから良いんですよ。でも観客がどうかというと…。

黒瀬:プレーヤーになってくれない?

KOURYOU:誤解してプレーヤーになってくれてる感じもあります。

黒瀬:違う遊び方しちゃってるってことですかね。

KOURYOU:それでも良いのかも。

黒瀬:楽しむだけなら良いといえば良いかもしれないが…。

KOURYOU:でもダメなのかな。時間を入れるのが大きなテーマだったから。

黒瀬:今回の「家船」は、KOURYOUさんが一番入れようとしていた「時間」に対して、観客に注意を払わせたり、意識させたりする構成になっていなかったのでは。模型に時間が流れている事に気づくことができれば、時間を追いたいと思う。時間を追跡したい、時間が変わったらどうなるか、時間が経ったら何が生まれるんだろう、そういう欲望が生まれる。でも博物館のように見えてしまうと、それがどれだけ物理的に動いていたり、時間を表現していたとしても、遺物として止まって見える。

岸井:実は時間の生成だと見るべきという意味では、民藝はどうですか?

黒瀬:いや、民藝はちょっと違うと思いますね。柳の時間は止まってます。彼は、成仏したいんですよね。死が怖いんですよ。死と悪とカルマ、人間の汚れた部分が怖いし、見たくない。柳は近代の仏教学者で、浄土真宗について考えた人ですよね。浄土真宗の教えだと、我々が救われたいと思う心、それ自体も阿弥陀さまの本願だから、救われたいと思った瞬間に阿弥陀さまが現れているので、もう救われている。自分に主体はない。早い話、柳にとって民藝は阿弥陀さまなんですよね。職人が無心で、自我を滅して作った優れた民藝品には主体がなく、阿弥陀さまと同じ場所にいるのだから、それに習えばいいと。しかし問題は、そんな阿弥陀さまのような素晴らしい民藝品を見つけたり、選んだりしてるのって柳本人なのでは?ってことで…。

KOURYOU:柳さんが神になると。

黒瀬:そう。だから結局、柳の「目利き」がすべてになり、柳がドグマになる。現在の民藝と呼ばれてるもののほとんどはこれです。

岸井:それはつまりニヒリズムから脱出しようとしてニヒリズムになってる典型パターン。しかし民藝にそうじゃなくなる可能性があるから、黒瀬さんは興味があるわけですよね。

黒瀬:だから僕は、柳が排除した死とか悪を、民藝に導入することを考えてます。今の民藝は「生」についてしか語っていない。良き生活、クオリティ・オブ・ライフのための民藝になり下がってる。それが柳の失敗です。美しかない世界、それ以外の醜とか悪とか死を消そうとしちゃったんですよね。消えるわけないのに。

岸井:醜とか悪って時間じゃないですか。矛盾するようですが、生しかないと時間は止まってしまう。全部救済されるんだから。悪は時間が動いている。本当の民藝の魅力は止まっている事ではない。

黒瀬:悪も変わる。つまり、柳の生きていた時の悪と穢れは現代のそれとは違う。

岸井:なるほどね、勉強になりました。時間を導入するというのは、悪や暴力をどうやって中に入れるかという事。時間の提示には必要ですね。最近のアートも演劇も炎上をおそれてそこから逃げまくってんのよ。それがつまんないんですよね。


レビューとレポート 「家船」特集 / 第10号(2020年3月)