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「マッドスプリング」レポート 

5月9日(火)より6月10日(土)まで、グループ展『マッドスプリング』が西船橋のKanda & Oliveiraで開かれていた。
本展覧会は美術家の梅津庸一とKanda & Oliveiraのディレクターである神田雄亮の共同企画による展覧会だ。

展覧会導入のテキストで梅津は「「マッドスプリング」には明確なテーマが設定されていない」と記しているが、展覧会全体を通して見ると自然といくつかのテーマについて語りたい気持ちが湧き上がってくる。このテキストが本展を鑑賞した人はもちろん、鑑賞できなかった人にも、展覧会の雰囲気や内容を知るきっかけになれば幸いだ。

また、今回取材にあたってディレクターの神田に話を聞くことができた。本レポートは一部に神田の解説を取り入れつつ、展覧会順路に沿って書いてみようと思う。




1F 森栄喜、安藤裕美、高田冬彦

森栄喜作品展示風景
森栄喜 《Untitled》2017、Cプリント



安藤裕美の油彩作品
安藤裕美の油彩作品
安藤裕美の油彩作品



安藤裕美《パープルームセンターで話し合うシエニーチュアンとあゆ美》2023年 油彩



安藤裕美 《光のサイコロジー》2019-20、video、17分19秒


ギャラリーに入ってすぐ右側の部屋で最初に出会う作品は、正面に掛けられた森栄喜の真っ赤な写真だ。
とある家族の中に他人の森自身がその一員であるかのように介入したユニークな写真作品で、赤いフィルターによって「家族」という血の繋がりによる強固な関係性や情緒を想起させる。しかし本当の家族ではない森がその中に入り込んでいるのにも関わらず、他人から見るとあたかも家族写真に見えるような作品となっており、家族という共同体の捉え方に揺さぶりをかけている。

次に目に入るのは、同室に展示されている安藤裕美の油彩作品とアニメーションだ。
安藤はパープルームや相模原での生活を中心に、そこで見たものをモチーフとして絵画や漫画、アニメーション等を制作している。
今回の油彩作品は全て今年描かれたものである。これまでより、どこかみずみずしさを感じさせるものが多い。近年梅津がパープルーム以外の活動に精をだし、パープルームを不在にすることが多くなっていることから、彼女らの共同体は以前と違う状況に置かれつつある。それはもちろん彼女らも認識しており、YouTubeチャンネルのパープルームTVでも度々議論に上がっている。パープルームができて10年が経とうとしている今、その形は変化しようとしているのではないだろうか。もしかしたら、今までの形は失われるのかもしれない。ややロマンチックによりすぎる解釈な上に安易かもしれないが、安藤の抱いているであろう切実さや危機感が、水面の煌めきのような絵の具ののせ方に見られ、過去を懐かしむような印象を抱かせるのかもしれない。

安藤にとってパープルームを主宰する梅津やメンバーはどんな存在なのか、森の作品と同じ部屋で見ることで勝手な想像をさせられる。もし安藤にとって彼らが家族と同様かそれ以上に感じるところがあるなら、森がそこに混じって写真をとったらどのように見えるのだろうか。



1Fの奥にあるガレージでは、高田冬彦の映像が流れる。

ガレージ入口


高田冬彦 《Afternoon of a Faun》2015-16、Single-channel video with sound、5分27秒


高田冬彦 《Love Phantom》2017、Single-channel video with sound、1分


高田は人間が持つ妄想の楽しさや馬鹿馬鹿しさ、愚かさを存分に感じさせてくれる作家だ。今回はバレエの「牧神の午後」をモチーフに、牧神がニンフへ抱く欲情を自己愛に読み変え、自撮り棒で自分をうっとりと撮る牧神とそれを邪魔する大勢のニンフたちによる目がまわるような映像と、男子高校生(?)がシャツの中で行う手遊びをモチーフにした、最終的にはボーイズラブのロマンスを感じさせる1分の短い白昼夢のような映像が展示されている。



2F 森栄喜

階段を上がり、図録などを販売する小部屋があるスキップフロアのような階に出ると、窓から差し込む明るい光の先に、森の音声作品が聞こえてくる。


森栄喜 《シボレス|破れたカーディガンの穴から海原を覗く》2022


今まで梅津や彼が主催するパープルームが関わる展示をある程度見ている身からすると、本展の参加作家を見て驚いたのは、森と高田であった。今まで同一の展示で並べられたり、語られたことはあまり無いように思う。しかし、意外であったと同時にあまり違和感は感じなかった。
森が「家族」という枠組の解体を行おうとしている様は、パープルームの「親密」な共同体が「家族」の関係性とどう違うのかを想起させる。高田はもともと狭い自分の部屋で長く撮影・作品作りをしてきた。梅津が相模原にいる時に住まうパープルームの雑然とした住居兼アトリエは、そこを溜まり場のようにしてメンバーが集ってくる場所でもある。どちらも「生活感」が作品へと色濃く現れている。
梅津やパープルームの雰囲気と森・高田の作品は違う手つきを感じるが、彼らは年齢が近く、どちらもどこかで繋がっているような、同時代的な雰囲気や問題意識を持っているのではないだろうか。

 

3階 川島郁予、梅津庸一、安藤裕美、冨谷悦子、東城信之介

まず目を引くのは、巨大な川島郁予(旧姓:山田)の作品だ。およそ縦7.5m×横4m弱という大きさながら、トレーシングペーパーという薄い素材にオイルパステルで描かれている。紙に体を巻きつけたり、寝転がりながら制作されており、絵には下から見た形の蛍光灯が描かれている。壁と床の接するあたりに描かれた大きな蛍光灯の上下には自画像のような人間や自転車や歯のようなものがあるが、茶色い雨によって見えそうで見えなくなっている。本作品は制作から20年を経て公開に至った。

神田曰く、「作品が制作された2000年代初頭、他者とのコミュニケーションに悩みを持っていた当時20代の彼女の表現は、それ以後の2010年代に出てくる「メンヘラ×美術」の表現とは一線を画している」とのことだ。確かに川島の作品には激しい色使いや筆致が感じられるが、その表現によく見られる内臓の露出や血などのグロテスクな印象よりも、どちらかと言うとマイクロポップの作家が持つ印象に近い。排泄や掃除といった、綺麗なばかりではない「おぞましい」生活と地続きの泥臭さと、それを覆い隠そうとする思春期の子どもたちが持つメルヘンさがせめぎあう葛藤の様子を感じさせる。少女マンガで言うと、時代は違うが高野文子の「絶対安全剃刀」(1982年、白泉社)のような不穏さと言えるだろうか。このマンガでは、思春期〜20代前後の青年たちが登場するが、彼らの「こうでありたい」というキレイな理想と、それに反する現実との折り合いをつけようとする様子が描かれている。しかし、青年たちはまだ若く経験値がないため、うまく対応することができない。そのジタバタした未熟な葛藤を、ファンタジーと現実の境がないまぜになっているように表現していることが、両者の魅力ではないだろうか。
川島は2000年代当時、高橋コレクションやミヅマ・アクションなどの個展で作品を発表しながらも「誰にも見られたくない」という言葉を残している。彼女は作品を作って発表することがコミュニケーションになってしまうことを理解しており、鑑賞してもらうことへの感謝の気持ちを示しつつも、「ありがとうございます。こっち見んな。空気銃で撃つぞ」と言って繋がりを拒否する姿勢は、誰かと繋がりたいと言う気持ちを原動力とし、自己の病気や不安定さを個性として強調して表現することで社会でのアイデンティティを示す「メンヘラ×美術」表現とは根本的に異なっている。

川島の描く茶色い雨の中に埋もれかけているモチーフを覗く時、彼女のそんな気持ちをも垣間見ることになっているのかもしれない。

「彼女はその後しばらく作家活動を休止しており、現在は結婚し以前より穏やかに過ごしている」そうだ。しかし、「本展覧会をきっかけに再びドローイングを描き始めているようだ」と神田は語った。今後の彼女の作品を見るのが楽しみだ。


川島郁予 《雨》2004、オイルパステル、トレーシングペーパー、745.5×372.5cm


川島郁予 《雨》 部分
川島郁予 《雨》 部分



足元まで迫る川島作品を通り過ぎると、奥の壁には梅津庸一の作品が見える。

梅津庸一 《うさぎ、美術の良識からの逸脱》2023
紙に油彩、水彩、アクリル、インク、65.0×50.3cm、10点組


「ゲンロン14」(2023年3月発行、ゲンロン)の表紙に採用されている作品だが、今年のはじめにこの場所で行われた「フェアトレード 現代アート産業と製陶業をめぐって」展(以降「フェアトレード」展)の搬入中に、ちょうどこの作品の下の床で描かれたそうだ。梅津はこの近作1組のみの展示となっている。ステイトメントによると、本展はこの作品を展示するためのグループ展を構想するところから始まったという。

近年の梅津は、以前の作品制作のペースとは比べ物にならない程、陶芸や版画作品を猛スピードで量産している。まるでピカソのようなハイペースだが、そのような梅津が作品を継続して作っていくための環境や関係作りに興味がそそられる。

特に信楽での梅津は、長年に渡って受け継がれてきた確かな技術や伝統に大きな関心を寄せているように感じられる。梅津は現地で暮らすことで周囲の環境や人々と関わりながら、その産業構造の中で陶芸品としての用途を廃した非実用的な作品を作ることによって、その技術を「表現」を使って可視化しようとしているのではないだろうか(ここでの梅津の「表現」には、図画工作の「造形あそび」的な感覚を起点にした手遊び・実験の要素と、産業をメタ的に捉え直す視点が入っているように見える)。
そして、文化の歴史・技術をそれに関わる人々との関係性から捉え直した展覧会「フェアトレード」展をこの場所で開いている。そこで展示された梅津の釉薬を感じさせるドローイングは、すぐ横にあった陶板作品によってその質感が結びつけられ、さらに株式会社釉陶などへのインタビュー映像によって、梅津の使用した表現技法が現地の産業とその技術から学習・引用されていることを示していた。このように、作品の魅力を担保している伝統的な技術の紹介にも比重が大きく取られており、梅津の近年の感心どころが窺い知れる。本展の作品も、丁度「フェアトレード」展の時期に描かれたこともあり、同様に釉薬の雰囲気を持つ作品となっている。しかし、今回は隣に陶板作品はないため、作品の背景にある技術や仕組みよりも描かれている内容そのものに注目させるような展示となっている。



梅津の正面に向かい合うように展示されているのは、安藤のドローイングだ。

展示風景
安藤裕美 《《開戦》を描く梅津さんと坂本さん》2016 Pencil and watercolor on paper


「左側壁面の中央付近にある《《開戦》を描く梅津さんと坂本さん》を始点とし、近年のドローイングが網目のように広がりを持って配置されている。」(神田談)



梅津作品から左を向くと、今度は冨谷悦子の小さな版画作品が並べられている。

展示風景


冨谷悦子 《Untitled》2002、エッチング、18.2×19.7cm
冨谷悦子 《Untitled》 部分


冨谷悦子 《Untitled》2004、エッチング、9.0×7.5cm
冨谷悦子 《Untitled》部分



冨谷は銅版画のエッチングで、非常に緻密で繊細な作品を制作する。
小さい画面に超絶技巧的に描かれる植物やモヤモヤした謎の物体は、その物の形の正確性や描き込みの細かさによってダークファンタジーのような世界を出現させている。そのどこかディストピア的な世界観は、ワタリウム美術館で行った梅津の個展「ポリネーター」で展示されていた、ルーズリーフやプリントの裏に描かれたような、小さくて細々とした線によって描かれた少女らしい生き物のいるドローイング《LIQUID NIGHT》を思い出させる。作品集の「ポリネーター」を購入している人はぜひ合わせて見ていただきたい。
これは余談だが、冨谷のこの作品が描かれたゼロ年代のイラスト界隈でも、同じような雰囲気の緻密なペン画が同人情報・イラスト投稿雑誌「コミックテクノ」など一部で流行していた。まだデジタルは一般的ではなく、ハイテックやマンガ用つけペンの黒のみでスクリーントーンもあまり使用せず、V系とゴシックとパンクをないまぜにしたようなモノクロファンタジー表現があった(コミックテクノは現在廃刊となっており、参考資料が残っていないことが悔やまれる)。

神田曰く「冨谷は現在は目立った作家活動は行っていないが、もともと山本現代の所属作家であったそうで、西船橋近辺でも彼女の作品を多く持つコレクターがいる」とのことだ。



最後は3F奥の小部屋に展示されている東城信之介の作品を紹介する。

東城信之介 《Unnamed》2023、ミクストメディア
東城信之介作品 展示風景
東城信之介 《Unnamed》2022、銅版、顔料、アルミニウム


東城は「自身の心象風景や無意識に見えてしまう虚像を、金属板や工業製品の表面に大小の傷やサビなどを施すことで具現化(パレイドリア現象)している」(Kanda & OliveiraWEBサイト)そうで、正面の作品はダビデ像がモチーフとなっており、Kanda & Oliveiraという空間へ金属の工業製品やストリートアートの文脈の作品がマッチするところには驚きがあった。

また、ダビデ像の絵と向かい合う壁はオレンジに塗られ、アフリカに由来するお面がかけられているが、これは神田曰く「今年美術手帖でも取り上げられたアフリカンアートへの注目度の高まりに対し、これまでの欧米諸国との対比としてオリエンタリズム的に消費されることを懸念した表現をしているようだ」とのこと。



総括

「マッドスプリング」展は、「ただひたすら一観客として今Kanda & Oliveiraの空間で見たい展覧会を目指した。」と梅津のテキストにあるように、明確なテーマ設定をしていないとしている。
しかし本展を通して見てみると、①作家(作品)の再生・支援・連帯、②Kanda & Oliveiraの神田への教育という視点があることに気が付く。

については、すでに作家活動を一度休止に近い形としている川島や冨谷の作品に再びスポットライトを当てている点がまず挙げられる。作家は経済的・精神的・その他様々な事情で制作を続けることが困難になることが多くあり、女性に関してはさらにジェンダーギャップによるハードルの高さはもちろん、結婚・出産に伴うやむを得ないキャリア断絶を強いられることが多い。それにも関わらず美術作家は何十年と継続して活動していないと作品の価値がつかず、振り返られることもないという傾向が強い。しかしそれは、作家と作品を見る上で、不必要な制限をかけることになっている。やむなく短い活動期間となってしまった作家でも、素晴らしい作品を残す可能性を排除してしまうことになりはしないだろうか。本展のように、今は活動していない作家の作品でも、良い作品を繰り返し思い出し、展示をし、考えるきっかけを作ることはとても意義深い。川島については一旦結婚等でキャリアを中断した作家であるが、本展をきっかけに制作を再開するなど、未来に期待できる流れも生んでいる。
また、本展は安藤をのぞいた6名はほぼ同世代である。上記ですでに述べたが、今まであまり横の繋がりを見ることがなかった作家選定があり、80年代前後生まれの作家の新たな側面が今後見えてくるきっかけとなりそうだ。
唯一90年代生まれの安藤については、3階で梅津の正面にドローイングが展示されていることが示唆的だ。パープルームに梅津の不在状態が長く続いている状況や安藤のキャリアを考えると、今後の彼女の動き方は注目すべきところがある。かつてパープルーム予備校での先生と生徒が対等な作家同士の関係性となった今、2人の作品が向かい合う様子には、どんなメッセージが込められているのだろうか。


神田への教育とは、今年初めの「フェアトレード」展の座談会等でも梅津が述べているとおり、コレクターであった神田が「ちゃんとした」ギャラリストになるために必要な知識や技術(展覧会企画の方法から、什器の制作、作品の梱包・発送など)について、梅津が様々な形で教育を施している。今回の企画も梅津から提案があって始まったこともあり、随所に梅津の手つきが色濃く見てとれる。だが印象的だったのは、作品横に掲示された作家紹介のベースを神田が書いていることだ。神田がその作家作品を初めて見た時の印象や、展示作品の解説を書いている。


作家紹介


最終的に梅津と安藤による修正が行われているとのことだが、私はこれに非常に驚いた。現在ギャラリストで、自身が書いた作家や作品解説を展覧会で掲示する人間がどの程度いるであろうか。通常ギャラリーの企画展では、作家本人が書いたステイトメントをベースに少し改変を加えたものを使用するか、キュレーターが書く場合が多い。これは、Kanda & Oliveiraというギャラリー運営に対する神田の真剣な姿勢と責任感の現れ、かつ梅津による教育が現れている一つの結果ではないだろうか。今後のKanda & Oliveiraが、梅津の補助輪をどのように外し独自の道を見つけるのか楽しみだ。



川島作品を嬉しそうに解説する神田





マッドスプリング展に寄せられた梅津庸一によるステイトメントを参考に全文引用します。

本展について

展覧会のキュレーションには口実を用意しなければならない。「多様性」「サステナビリティ」「アフターコロナ」などとりあえず何かテーマを掲げなければならない。しかし建前だとしても口実があるだけまだマシで現代アートを謳いながらも若手作家を適当に集めて売り抜くだけの展覧会も増えている。また、最近展覧会を見てまわっていると「お手本のように政治的に正しい社会派の作品」か「極度に私小説的な作品」の二極化がさらに進行しているように感じる。「政治的」「美学的」の横断にこそ美術の醍醐味があると僕は思ってきたが、どちらかに極振りしないとそれぞれのマーケットで生存できないという事情があるのかもしれない。
いや、それは違う。Twitterに投稿する詭弁としては御誂え向きのコメントかもしれないが、現状はもっとだらしなく退屈な地平が延々と広がっている。

と、前置きをしておきながら本展「マッドスプリング」には明確なテーマが設定されていない。その時点でこんな文章を書くのはそもそも筋違いなのかもしれないが本展が開催される経緯を簡単に説明させてほしい。

今日、ギャラリーであれ美術館であれ、いたる所で展覧会は絶え間なく開催され続けている。そんな飽和状態とも言える状況下でここKanda & Oliveiraは昨年千葉県の西船橋にオープンした。しかしできたばかりの新しいギャラリーということもあり、明確なビジョンや運営理念は持ち合わせていなかった。前回ここで開催した「フェアトレード」展は僕のコロナ禍以降の実践と問題意識を反映した渾身の展覧会だったが、Kanda & Oliveiraの今後の方針にも影響を及ぼしたようだ。コマーシャルギャラリーは通常は専属の所属作家を有し、音楽レーベルのように作家とギャラリーが二人三脚でブランドイメージを形作るのが通例だ。けれども日本におけるコマーシャルギャラリーは作家と契約を交わさないにもかかわらず強い拘束力を持ち、時として作家の活動を抑圧し制限してしまう要因にもなっている。もちろん健全な関係を築いているケースの方が圧倒的に多いわけだが。この20年のあいだに日本にも現代アート系のギャラリーは増加しインフラがだいぶ整った。それによって作家は発表場所が確保され活動しやすくなった一方でギャラリーのシステムや慣習に規定されるようにもなった。

『美術手帖』2006年7月号に掲載されているテキスト「〈内向〉の技法、帰属なき〈表象〉―「ゼロゼロ・ジェネレーション」という時代」で椹木野衣は以下のように述べている。
「社会的な諸条件は画材やメディアと同様、美術家にとって異化すべき材料くらいに考えるべきだろう。むしろ、凡庸でつまらないアートほど、実際には社会的な諸条件に規定されつくされていて、ゆえにそのことに気づかない。」
僕は基本的にこの意見に同意なのだが椹木はこの社会的な諸条件の規定から逃れるための手段として「帰属を失った身体(表象)への容赦のない視線、そしてそれが生み出す徹底した技巧の行使による没主体的な生成としての内向」を提案している。つまりグローバルスタンダードや国家、諸制度から逸脱し、さらに主体を放棄して生成される過剰さを推奨していると読むことができる。いうなれば前衛的な態度の延長線上にある。けれども今更確認するまでもなく椹木がここで取り上げた作家たちは次々と新興のコマーシャルギャラリーへと回収され存在感を失っていった。かくゆう僕自身もそうだった。「逸脱」や「過剰さ」はアートマーケット内でのセールスポイントへと収斂していった。「わたしは他とは違う」という「差異化」を一種の過剰さや規定できなさに賭けてしまうのはアーティストの宿命でもあるが果たして固有性とは差異化の先にあるものなのだろうか。

そんな経過を知ってか知らずか、Kanda & Oliveiraは敢えていわゆる所属作家制に固執するのではなく作家とその都度プロジェクトベースで展覧会も積極的に企画していく道を選んだ。本展は「フェアトレード」展の次の展覧会のアイデアがなかなか浮かばず、うさぎのような表情をして困っていたギャラリストの神田雄亮さんのために提案した企画である。「フェアトレード」展の設営期間中に締め切りを控えた『ゲンロン14』の表紙の絵をギャラリーで制作させてもらったことからその作品を含んだグループ展はどうかと。『ゲンロン14』の表紙に採用された《うさぎ、美術の良識からの逸脱》はうさぎをモチーフにした10枚に及ぶ連作なのだが、最初から連作だったわけではなかった。ゲンロンの上田代表からの度重なるリテイクによって枚数がどんどん増えていったのだった。制作は難航したが「もっとポップに」「書店の群雄割拠の中で勝たねばならない」「文芸誌っぽさを排除する方向で」「うさぎは大きめ」などのオーダーに応えるうちに普段アトリエで自由に制作していたら描くことはできなかったであろう作品に仕上がった。ここで内容には触れないが『ゲンロン14』には僕のエッセイも掲載されており実はそれこそが「フェアトレード」展および本展に通底する気分なのである。

出展作家はアート・コレクティブ、パープルームで長年ともに活動してきた安藤裕美さん以外はほとんど会ったことすらない作家たちを選出した。僕が作家を選び、会場構成を担当した時点でキュレーションの力学が働くしその責任から逃れるつもりはない。けれども声高に主張したいステートメントもない。ただひたすら一観客として今Kanda & Oliveiraの空間で見たい展覧会を目指した。作家である以前から美術の観客でもある自分の20年間の鑑賞体験を振り返り僕は美術の何に惹かれてきたのかと自問自答した。批評的な言説やギャラリーというフレームになるべく規定されないもの。そしてその中から時間的、条件的問題をクリアできそうなものを再配置する。きわめて個人的な鑑賞体験をギャラリーという装置を経由して可視化する際に「私的」だと思っていたものと「公的」なものを取り違える。そう「作家」も「キュレーター」もただの役割に過ぎない。そして与えられた特権に一時的であれ鈍感でなければその力を行使することは難しいのだ。つまり社会やアートの諸条件から規定されることから免れるのは不可能なのである。社会や環境に規定され、また規定することこそが人の営為なのだから。アーティストによる制度批判、または規範から逸脱を志向することも最初から「アート」に織り込み済みなのだ。
僕は正直に言えばいわゆる「現代アート」に疲れているし、もはやついていける気もしない。それでも僕は美術の世界で生きていくだろうし、他の生き方を知らない。そしてここ数年で僕は寿司職人や編集者、v系のバンドマン、バーテンダー、などの地道な営みを積み重ねる人々に尊敬の念を抱くようになった。素朴な話になるが、美術全体が進むべき道なんて到底考えられないが展覧会やギャラリー単位で考えた時に誰かにとって大事な機会、場所を作ることに注力するのも悪くないのではないかと真剣に思っている。
たとえば、飲食店が競合他社に負けないようにより良いサービス、味、宣伝を追求するのは当然だが、美術の世界はしのぎを削ろうにもステージ自体が地盤沈下しつつある。
冒頭から現在の美術の現状がいかにダメかということを書き連ねてしまったが、それを他人のせいにする暇があったら少しでもアートを取り巻く環境が改善するよう努力していきたい。僕はガイドラインや制度を整えるよりも愚直に作品を作り、個別の営みへの愛を表明していくという非効率極まりない道でもがいていこうと思う。
最後になるが十数年前に出会い羨望の眼差しを向けていた冨谷悦子さんや川島郁予さんの作品と共演できることを嬉しく思う。くわえて、なぜか西船橋で開廊してしまったKanda & Oliveiraが天王洲をはじめとする都内のギャラリーとは違う役割を担っていくことに期待している。今後予定されているいくつかのプログラムには僕からの「お土産」が多少反映されるはずだが、本展を機にKanda & Oliveiraが自立の道を歩むことを切に願っている。
アート界の移り変わりは早い。季節も春から夏になろうとしている。

梅津庸一

https://www.kandaoliveira.com/ja/exhibitions/13-mad-spring-group-exhibition/





取材・撮影・執筆:宮野かおり(美術作家)
1990年東京都出身。埼玉県と福島県を行き来しながら育つ。一度普通大学を卒業後就職を経て、美術大学へ進学。2020年東京藝術大学美術硏究科絵画専攻(壁画第一研究室)修了、2021年ゲンロン新芸術校第6期修了。幼い頃から親しんできたりぼん・ちゃお・なかよしなどの少女漫画をベースにした少女主観の世界観で絵画を描く。
主な個展に「ポリリズミックド・スイミング」(2022年、LIGHTHOUSE GALLERY)、主なグループ展に「エターナル・トラベラー☆彡〜永遠のなつかしい旅〜」企画(2023年、Shirokane 6c)、「ニニフニ(而ニ不二)」(2023年、MEDEL GALLERY SHU)など。




マッドスプリング
2023年5月9日 - 6月10日(終了)
企画|Kanda & Oliveira、梅津庸一
協力|KEN NAKAHASHI、WAITINGROOM、Office Toyofuku、灯工舎、Kawara Printmaking Laboratory
出展作家|安藤裕美、冨谷悦子、川島郁予、森栄喜、高田冬彦、東城信之介、梅津庸一


レビューとレポート第49号