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「私」を解体する――「梅津庸一展 ポリネーター」レビュー 中島水緒

回顧展ではなく

ひとりの現代作家が美術館で個展を開催するとき、そこにはなにがしかの強力な意味合いが生じる。作家の半生をたどる回顧展。作家が現代においていかに重要であるかのプレゼンテーション。現代美術史への登録。あれやこれやの文脈に目配せした業界政治力学の場。

なるほど確かに美術館で個展を行うというのは、作家にとってひとつの栄誉なのだろう。多くの場合、存命作家の美術館での個展は、代表作や傑作とされる作品の再招集の場である。そこでは作家の足跡がよく出来たシナリオのもとに語られ、当該作家を語るにふさわしい言説とキャリアとが定位される。見方を変えればそれは、まだ生きていて変容のただなかにあるはずの存在を、美術館という霊廟に押し込め祭り上げる暴力的なイベントでもあるのだ。


2F展示風景
Photo by Fuyumi Murata

さて、ワタリウム美術館で開催された梅津庸一の待望の個展「ポリネーター」はどうだっただろうか。展覧会のイントロダクションは「本展は2004年から2021年までの作品を梅津自身がキュレーションしていくが、回顧展ではない」と明確に但し書きを添えている(註1)。実際、ワタリウムの2階から4階(+地下のミュージアムショップ)にまたがった展示を見ていくと、作家の歩みをリニアルに辿ったオーソドックスな回顧展とはまったく異質の構成であることがただちに理解される。加えて本展は、代表作とされる作品をやたらと有難がる傑作主義からも距離を置いている。梅津といえばその活動の初期には黒田清輝やラファエル・コランを引用したセルフヌードの点描画が注目されたが、本展には確かに《フロレアル》(2004-2007)などの懐かしい作品が出品されてはいるものの、あくまで展示の流れにおいてひとつのピースとして召喚されているに過ぎない。さらに、会場にはキャプションや作品解説の類もない(これは昨年1月に√K Contemporaryで開催された梅津によるキュレーション展「絵画の見かた reprise」から引き続き採用されている手法だ)。絵画や陶芸作品の造形的な質(色彩、形態)において響き合いを演出し、ワタリウムの変則的な空間を絵画のキャンパスに見立てて全体のハーモニーをつくりあげること――。言語的な解釈から非言語的な受容へ鑑賞者を誘おうとする梅津の意図は近年になってより明確で、今回の「ポリネーター」展も例外ではなかった。展覧会を訪れた鑑賞者は、壁や床さえもが黄色、緑、ラベンダーなどのカラフルな色彩に覆われた空間で、視覚のみならず触覚のような身体感覚にも作用する浸透圧を感じながら、絵画の内部に潜り込んでいくような体験をすることになるのだ。絵画の内部、それを梅津庸一という作家の内腑のメタファーと言い換えてもよいかもしれない。展覧会と「私」という主体の疑似的にして有機生命体的な重なり合い。これを無条件に受け入れるのはあまりにも危険である。となると、展覧会の課題はおのずと梅津庸一という作家性=アイコンをいかに批判的に取り扱うかという点に集約されるのではないか。

(右)《[K]night》(2007-2008)、(左)《パームツリー》(2021)
Photo by Fuyumi Murata


愚直なまでに内腑をしめす

「ポリネーター」は回顧展ではない。とはいえ「美術館における梅津庸一のワンマンショー」という触れ込みを見れば、鑑賞者は当然のように作家の全貌を開示する一大展覧会に期待を寄せるだろう(ここ数号にわたる「レビューとレポート」誌の「ポリネーター特集」もまた、一見してキャンペーン的でありながら、リアルタイムで本展に加えられる期待=圧力の一種と捉えられなくもない)。たとえ回顧展(レトロスペクティブ)ではなくとも、展覧会には何かしらの眺望(パースペクティブ)が求められる。これに対し、本展はわかりやすい見晴らしをあえて攪乱し、展覧会の内部から「展覧会づくりの文法」を組み替える手法を採用したように思える。具体的にいえばそれは、美術館建築に対するアプローチ、そして過去の自作についての再解釈も含めた時間と空間の重層化・複層化だ。

重層化・複層化の手法を具体的に見ていこう。モチーフや形象のリンクを軸にして過去作と最新作を織り交ぜた構成。絵画、ドローイング、陶板作品などの画像をプリントして視覚的なエフェクトに仕上げた壁紙。床や壁はわざと手の痕跡を残した粗い塗りで覆われており、それ自体が絵画のメタファーとなっている。つまり、展示作品と建築はお互いを飲み込みあいながら入れ子構造を演出しているのだ(壁紙の仕上げが象徴するように、本展にはデジタルとアナログの往還が見受けられることも付け加えておこう)。


2F展示風景。円柱の壁紙に《高尾山にジャムを塗る、セカンドオピニオン》(2018)の画像があしらわれている。
Photo by Fuyumi Murata


興味深いのは、この入れ子構造が決して堅固なものではない、ということだ。窓、スリットなどの開口部が多いワタリウムは外光をたっぷりと採り込むが、照明のセッティングひとつで表情を一変させそうな繊細な点描画すらも外光にさらす大胆な展示は、鑑賞環境の揺らぎをあえて引き受けるという、「フラジャイルなものへの志向」が強く感じられた。この点に関しては、点描画法による近作《昼―空虚な祝祭と内なる共同体について》(2015-2020)が窓から差し込む光に照らされてほのかな銀色に発光し、ヌード姿の梅津の図像を搔き消して筆触のひとつひとつを際立たせていたのが象徴的ではないだろうか。梅津の「代表作」たる「点描によるセルフヌード」は外からやってくる要素によって分解され、展示空間の空気に溶け込んで新しい相貌を獲得していた。


《昼―空虚な祝祭と内なる共同体について》(2015-2020)
Photo by Fuyumi Murata


筆者は本展を、「展覧会」というパッケージングに対するひとつの挑戦と見た。愚直なまでにハンドメイドな展覧会、と言い換えてもよいだろう。展示空間全体への働きかけは、ワタリウム美術館に鑑賞者として10年以上足を運んできた梅津からの、建築そのものに向けたレスポンスでもある。壁の高い位置に絵を掛けたり、あるいは低い位置に陶作品を設置したりした展示空間は、明らかに展示の文法の「定石」をはずしている。鑑賞者の視線は不安定に揺動することになるが、その視線の運動は花から花へと蜜を集める蝶のように気紛れで自由な軌跡を描く。そうしてワタリウムの建築空間を隅々まで味わうことになるのだ。

「フラジャイルなものへの志向」という点に関してもうひとつ印象的だったのが、3階「第17話、血液、太陽いっぱい」のセクションで紹介された2000年代制作のドローイング群だ。紙とペンといった身近な画材による一連のドローイングはL字型の仮設壁でゾーニングされた空間に秘匿するかのように展示された。少年少女のナイーブな心情が落書き風に、ときには殴り書きのような言葉とともに綴られる「作品未満」とも受け取られかねないドローイングが、なぜ本展に出品されたのか。


3F展示風景より、2000年代のドローイング群
Photo by Fuyumi Murata


梅津によるとこれらのドローイングは「思春期みたいな感じで、毎日泣いているような時期」に私的な動機によって描かれたものだそうだ。当時は公開するつもりすらなかったという。私的な動機によるドローイングが「美術館におけるワンマンショー」に展示されれば「お蔵出し」的な特別な意味合いが宿りそうなものだが、実際のところは違うだろう。一連のドローイングによる「バルネラビリティ(傷つきやすさ)」の提示は、マッチョな意味合いを帯びがちな「ワンマンショーの展覧会」にあえて綻びとフラジャイルさを持ち込む、梅津なりのひねたカウンターのように感じられた。点描画法によるセルフヌードで業界の注目を集め、美術業界・制度批判の論客として瞬く間にスターダムにのしあがった作家は、「私」の解体と解剖に挑んでいる。そのためにも、「ポリネーター」展はどこまでも愚直に、図画工作的な素朴さもあえて演出しながら作家の内腑をしめさなければならなかったのだ。


つくる喜び?

展覧会オープン直後、梅津はTwitterで以下のように「ポリネーター」展への意気込みを語っていた。

(現在、美術をとり巻く状況は決して良いとは言えない。しかし美術に人生を賭ける価値がないとは思わない。今一度、美術の楽しさ、つくる喜びを伝えたい。いや、伝える以前にまずは自分が美術につくることに没頭したい。ポリネーター展ではそんなわたしの思う「美術の気配」の回復に努めたつもりだ)(註2)

近年、陶作品や陶板を用いた作品にまで手広く挑戦し、大量の生産物を世に送り続ける梅津が、多くの人に「美術の楽しさ」「つくる喜び」を再発見させているのは疑い得ない事実だろう。また、SNSなどの反応が可視化されやすいプラットフォームをざっとチェックすれば、本展における「つくる喜び」の姿勢を称賛する声は容易に見つけられる(註3)。

しかし、「つくる喜び」のみを受け取って終わりにできるほど「ポリネーター」は単純な展覧会ではない(註4)。完成までに相当の時間を要する点描画法を筆頭に、梅津作品には制作プロセスに「忍耐」や「労働」を暗示させる作品が数多く存在する。4階のセクション「新しい日々」に展示された一連の陶作品《黄昏の街》(2019-2021)はその最たるものだ。箱舟状の台座に乗せられた約143点の陶作品は、いくつかの類型こそあれど作品ごとに奇形的な変貌を遂げており、これまでにない新しい形態を探求しようとする(/しなければならない)強迫観念を背後に感じさせるものだった。


《黄昏の街》(2019-2021)
Photo by Fuyumi Murata


近年、梅津は焼きものの町として長い歴史をもつ滋賀県の信楽に滞在(単身赴任)し、粘土による成型から窯焼きの作業までを現地で行っている。職人からのアドバイスを直接受けることも多いようだが(註5)、その技法には伝統的な陶制作の規律から逸脱するものも多い。まず、梅津の陶作品は性質の異なる複数の粘土を混ぜ合わせている。焼成の段階で失敗が起きないよう、性質を安定させるために単一の粘土で成型するのが本来は好ましいのだが、梅津は釉薬をかけたときの化学反応が多様になることを歓迎し、そのためにも粘土の混ぜ合わせに挑戦する。釉薬に関しても、伝統的な釉薬、専門店「釉陶」との共同開発による釉薬、アメリカから輸入した釉薬など複数種をミックスしている(こうした手つきには何種類もの絵具を取り扱う画家ならではの習性が残存しているのかもしれない)。結果、伝統的な陶芸観からすれば「きれい」とはされない色彩に焼きあがったり、ひび割れなどの失敗が起こったりすることもあるが、傷や綻び、ひしゃげた形態や釉薬の生々しい滴りにこそ注目すべき視覚的効果が生まれているように思える。それらは「つくる喜び」と一概に語り切れない屈折の徴しであり、完成された「作品」や「作家像」を内側から裂開していくシグナルのようなものだ。


《黄昏の街》部分
Photo by Fuyumi Murata


一連の陶作品のなかで特に注目すべきは「ボトルメールシップ」のシリーズだろう。廃品の瓶のまわりに粘土をまとわせ、小さな舟状に仕上げたボトルシップは、焼成の段階で内側で芯材となっている瓶が溶解するため、釉薬と混じったガラスを基底の舟部分に滴らせている。マーブル状に混じったガラスと釉薬は、これまで梅津がメインモチーフとしてきた「花粉」とはまったく別種の物質の生成変化を提示するものとして非常に興味深い。


《黄昏の街》より、ボトルメールシップ
Photo by Fuyumi Murata


複数の「私」を乗せて

かつて筆者は、「小さな独立国家に風は吹くか」と題したテキストで梅津によるキュレーション展「フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」をレポートし、作家でありながらキュレーターという主体の分裂状態に注目して「すべてを自陣に取り込みテリトリーを拡張しようとする「独裁者(ディクテイター)」」の様相を作家に見て取った(註6)。避けがたく強力に立ち上がってしまう作家性=「私」という主体への批評は梅津本人が自覚してすでに行っていることではあるが、本展においてはその作業が新たなフェーズに移行した印象を受ける。たとえばそれは、上述したような「フラジャイルなものへの志向」が展示空間全体に広がっていく構成、思春期的ドローイングの(半分隠しながらの)開示、陶芸作品に見られる逸脱、屈折、綻びといった要素にあらわれているように思えるのだが、はたしてどうだろうか。露骨に男根的であり、自画像=作家のアイコンでもある「パームツリー」が自重に耐えかねて横たえたり、支えにもたれたりと、「草臥れた」様相に変化しているのも注目すべき近年の傾向である。軽やかに舞う花粉の運動は、明らかに「重さ」「疲労」といった特性や状態へと移り変わっているのだ。とすれば、《黄昏の街》に集められた約143点の陶作品は、負荷を引き受けて細かくバラバラに粉砕された複数の「私」の象徴に見て取れなくもないのではないか。


《パームツリー》(2021)
Photo by Fuyumi Murata


バラバラに砕けた「私」がどこに向かうかはまだわからない。が、《黄昏の街》の台座が箱舟をかたどったものであることを今一度思い起こすならば、その針路は茫洋としつつもすでに見え始めているのかもしれない。舟は強い推進力を持たなければ海流の影響を受けて流されることもあるが、あえて流れるままにまかせるという選択肢もありうる。どちらが正解とは言い切れない。現時点ですでに紆余曲折の航海に草臥れていたとしても、「斜陽」のその先にこそ中堅作家の本当の勝負があるはずだ。




(註1)ワタリウム公式サイトにおける本展紹介文より。http://www.watarium.co.jp/jp/exhibition/202109/

(註2)パープルーム|梅津庸一(@purplume)2021年9月18日のツイートより
https://twitter.com/parplume/status/1439175860540428292

(註3)たとえば「発言がよく読まれるアカウント」の短評で言えば、田中功起(@kktnk)による2021年9月19日のツイートも「つくることの希望に溢れた展示」と本展を評しており、少なからずその後に展覧会を見た鑑賞者に影響を与えたと推察される。https://twitter.com/kktnk/status/1439417644306759683

(註4)播磨みどりによる「ポリネーター」展レビューは、「美術のおもしろさ」を謳い上げるだけではない本展の多義的なかまえについて切り込んだ考察をしている。以下を参照。播磨みどり「ポリネーター展に見る「美術のおもしろさ」について」(「レビューとレポート」第31号)https://note.com/misonikomi_oden/n/n0b33755ddc42

(註5)本展には職人との協働による陶作品も出品されている。大きなサイズの《花粉濾し器》(2021)の台座部分は職人に発注したもので、その土台に梅津作の不安定な形態が乗る、という構造に梅津なりの「陶芸とは何か」という批判的考察が隠されている。

(註6)拙稿「小さな独立国家に風は吹くか――梅津庸一キュレーション展「フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」レポート」(「レビューとレポート」第15号)を参照。https://note.com/misonikomi_oden/n/n31fff4fbfe95


トップ画像(note仕様により元画像からトリミング)
Photo by Fuyumi Murata




中島水緒
1979年東京都生まれ。美術批評。展覧会レビューや書評などを執筆。主なテキストに、「鏡の国のモランディ──1950年代以降の作品を「反転」の操作から読む」(『引込線 2017』、引込線実行委員会、2017)、「前衛・政治・身体──未来派とイタリア・ファシズムのスポーツ戦略」(『政治の展覧会:世界大戦と前衛芸術』、EOS ART BOOKS、2020)など。
WEB:http://nakajimamio.sakura.ne.jp



レビューとレポート第32号(2022年1月)