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ポリネーター展に見る「美術のおもしろさ」について 播磨みどり

 ワタリウム美術館で開催中のポリネーターを見に行った。「美術のおもしろさを、いま再び。」(*1)という文言や、300点近いという膨大な作品数、三か月の間信楽に暮らしてそのコミュニティに参入していったという生活面も含む制作行為の拡張の末、もしかしたらその量によって「作品」という概念や在り方をも超えてくるのかもしれないという期待を込めて行ったが、そう単純にはいかないような様々な思考や感情が呼び起こされる展覧会であった。

画面手前:《黄昏の街》(2019-2021)
Photo by Fuyumi Murata


 展覧会の順序に従って2階から順に過去作を見ていくと、現在の陶の作品群へと繋がるようなモチーフやタームが初期作品から繰り返し現れていることが見て取れる。網目、点々、液体、ピンクのザル、魚肉ソーセージ、絵の具が経年劣化したような色彩。空気中を漂う花粉というモチーフを経て、他種の生命の存続を無意識に媒介する「ポリネーター」というタームは、情景的で美しく、どこか非主体的な感じで日本古来の自然観にあっていると思うし、そのような非主体性を主体性に読み替える転換の可能性を秘めた言葉としてもとても魅力的だと思う。初期作品に色濃いロマンチックな世界観や、失われし青春という私小説的テーマは、郷愁を誘うと思うし、梅津の仕事はその初期から、参照項の重層性や網目のように張り巡らされた複雑な戦略は明らかで、進むと同時に、振り返る/見あげる/見下ろすという動作も考えられているような空間構成にはっとさせられると思う。会場には、パームツリーや花粉濾し器などの同じモチーフが色や大きさを変えて繰り返し現れるが、それは、判で押したように同じクオリティの自作の再現/バリエーションや、現実の再演/シミュレーションというようなものとは少しクオリティが違っており、忍耐や体力を求められるような数々のプロセスを踏んで初めて実現する陶というメディウムによって炙り出されていたものが何であるかについて考えさせられた。

「ポリネーター」展示風景
Photo by Fuyumi Murata


 新作の陶は手で捏ねて作られた辿々しい指跡をとどめていて、粘土がかつてはたっぷりと水分を含んだ柔らかな素材であった事が伺える。その表面を、かつて液体であり、焼かれることで流れ出して互いに混じり合い、硬質なガラス質へと変質した釉薬が覆う。それらは、高温で焼成されることで水分を完全に抜かれて、落としたら割れる一個の硬質な物質として、また美術館という場所において社会的にも固定化されることで作品となり、私たちはその情報と素材が辿ってきたプロセスや社会的文脈を全て、一個の「作品」として眼にする。

 緩やかに繋がりを見せる造形やテーマの中で、とりわけ異質で気になったのが、珊瑚のような形態をした「milk」(2007~2008)と題された小品だった。こういう複雑な形態をどうやって造形したのだろうかという素朴な疑問とともに、背後のドローイングからジェフ・ウォールが連想され、後に梅津がジェフ・ウォールの「Milk」(1984)からの引用であると言及しているのを見て、海外作家の直接的な影響をあまり語らないように見えていたこともあり、その意外性も含め気になった。会場の至る所に置かれた、流動性が有無を言わさず固定化されたような焼き物の肌を眺めながら、ジェフ・ウォールが自身の「Milk」について書いた、“Photography and Liquid Intelligence”という1989年のエッセイが思い出された。(*2)

《milk》(2007-2008)



 エッセイの中でウォールは、液体の動きのような自然現象とその表現が意味することの間には、論理的な関係があり、自然と写真の装置や制度との関係は、自然に対する技術的、生態的なジレンマの象徴ではないかと指摘している。また、光学と力学-レンズとシャッター、カメラ、プロジェクター、引き伸ばし機などに象徴されるような「乾いた」性質を持つ写真の制度と、Liquid Intelligence (液体の知性)とでも呼べるような自然の性質とを、対立するものとして考えることがあるとし、写真における水が、例えば原始的な採鉱における鉱石の分離のような、技術の起源につながる洗浄、漂白、溶解などの古い生産プロセスの記憶の痕跡・その前史的なイメージを呼び起こすことから、それが写真の「乾いた」部分を理解するのに役立つのではないかと思っていることや、そのような写真の「乾いた」部分の拡大を、技術的知性の一種の傲慢さであると比喩的に捉えることによって、その自意識の特徴について考えている事などに言及しながら、タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」に出てくる、対面する人間の深層意識にある物を読み取ってそっくりそのまま寸分違わずに目の前に再現して見せる、計り知れない知性を持った海が、写真やテクノロジー全体におけるLiquid Intelligence と光学的知性の相互関係を表す、非常に的確なメタファーであるとし、“In photography, the liquids study us, even from a great distance.”(写真において、「液体」は遠くからでも私たちを調査・研究している。)と結ぶ。

 写真が、時間の固定化によって流動性をイメージとして表象するのに対し、焼き物というメディウムでは、流動性はかたちとその表面の被膜を作るプロセスの内で時間と現象によって、素材が物理的に固定化させられ、最終的には落としたら割れる物質に帰結する。絵画における流動性は、平面におけるイメージのイリュージョンという面が大きいが、陶芸のそれはコントロールされた自然現象の末に、謂わば、結晶化されたような物体となる。液体というモチーフは、梅津の過去のドローイングにも散見される。例えばこの流動性は、今回の新作でいうと、絵画により近い陶板作品の方が、イメージとして見えてくる面が大きい分、流暢に感じられるように思われたが、そもそも、写真というメディアで饒舌に語られているものを、辿々しい工作のような物体として再現してみようと思ったその欲望のおかしさが際立つ。

《舞台》(2021)
撮影・今村裕司
《リキッドガール》(2007)


 ウォールのエッセイではまた、写真はそのプロセスの前後にあるカメラとプリントにおいて、水は忌避されるべきタブーとなることについても触れられているが、所謂焼き物は完成した時点で、ウォータープルーフとなり、水をはじめ日常的な使用に耐える物となって、使われることによって、生活の親しい一部となる。またその流動性を定着させるのに、最後の最後まで、時間や現象と、素材と物質という次元で向き合う比率の高い焼き物と、平面におけるイメージの操作に半分以上は意識を置きながら制作される絵画とでは、意識の使い所や時間の扱い方が違うだろう。写真や絵画というメディアを通してビジュアルとして饒舌に語ることができるものを、わざわざ労働のようなプロセスを介して結晶化したようなものが目の前にある事に、収まりがつかない感じがする。

 「高尾山にジャムを塗る、セカンドオピニオン」(2018)では、作者の裸身が太陽光に照らされ柔らかに発光しながら少し前屈みに山中を駆けぬけていく様子が遠巻きに撮影されている。山道には石や小枝などの固い物質があるだろうから、作家のシグニチャーのようなコンバースを脱いだら足の裏に刺さりそうだ、などとぼんやり思いながら眺めていると、視界の端に入り込んだ、今ではもう誰も見向きもしないような民芸用の釉薬によって色付けされたという鈍い色彩の陶の二体のパームツリーが、ビデオの中の軽やかな作者の身体に比して、まるで死体のように見えてぎょっとした。そのせいかもしれないが、事前にビジュアルで見る分には、とても楽しそうに見えていた、信楽で作陶した陶板を含む新作の陶芸作品で埋め尽くされた展覧会ではトリに当たる4階の空間も、実際にその空間に身を置いてみたら、一つ一つは造形的、絵画的な質感としてのおもしろみはあるものの、どういう訳だか全体的にはまるで墓場のように静まり返ったような印象で、「ポリネーターの落とし物」と題された地下の展示空間に降りて更なる作品を前にしても尚、その死体と墓場の強烈な印象はぬぐえなかった。一つ一つには、其々「楽しさ」とか「おもしろさ」と表現できなくもない要素もあるものの、全体の印象は重苦しく、その相乗効果にはなっていない。そこに私が感じたのは、絶対的な基準のないところで、目の前の物質の塊や完全にはコントロールできない現象、貧相な時代や敗北の歴史などと向き合い、手持ちのカードで、一人で延々と判断をするという、気の重さのようなことであった。梅津のカジュアルであり、熟練されていないからこそ根底の所から現れ出てきたような辿々しく柔らかい造形が、焼き物というメディウムによって硬質な物質として固定化される際に生じる、欲望とプロセスと結果との間の、初めから決して噛み合うことのない齟齬のような物を、殊更強く現前化させていた。スローであり、ドライであり、結晶であり、固体であり、近代であること。流動性を硬質な物質として最終的に固定化するという構造や外側からの圧力のような力や、私たちの都合など一切考慮されることなく進み続ける「時間」について改めて見せられたからかもしれないが、一通り見て会場を後にした時に強く残ったのは、作品を作ることや見ることに対する徒労感のようなものであった。

手前《パームツリー》(2021)、奥の壁の右端《高尾山にジャムを塗る、セカンドオピニオン》(2018)
Photo by Fuyumi Murata


「ポリネーターの落し物」展示風景
Photo by Fuyumi Murata


 ポリネーターの代表格とされるミツバチは、その数が減ってきていると聞こえてきてから随分な時間が経つ。生態系が機能するとは、その動きが止まらないことであり、其々は其々の種の生存戦略に根差した世界を懸命に生きながらも、互いがその意図を超えた繋がりの中にあり、異なる世界同士の行き来や流動性が失われれば、種は絶滅に至る。

 近年の梅津の副主題とでも言うような「美術という生態系」においても、作ることと見る事の他に、インスティテューション、マーケット、メディア等、其々が其々の理念や都合のもとに、其々の生存戦略に基づいた「最善」を尽くしている。数を動員しない事には、場が根こそぎ失われていくような、実質的な貧しさの中にある日本で、梅津は、年々難しくなる運営の領域においても、手持ちのカードを最大限に使って、せめて少しでも「良い」花粉を遠くに飛ばそうとする。「美術のおもしろさ」というような言葉は、作家の意向とは関係なく、場の存続を目的とした動員のために進んでいくPRの言葉であるが、それも同じく花粉のようにその目的のあずかり知らぬところに運ばれて受粉していく営みのひとつである。ワタリウム美術館のページには、「美術のおもしろさ」といった言葉とは対照を成すような「美術とはなにか。そして芸術の有用性や公共性とはなにか。それはわかりやすい希望やとっつきやすいビジョンの提示にあるのではなく、一見すると有用性や公共性など感じられないほど入り組んだ悪い夢のような世界にこそ存在する」という作家自身の言葉が紹介されている。(*3)

 梅津のつかみどころのない広範囲で過剰な活動は「作品」自体を制度から脱中心化していくような批評的視座を持ちながらも、同時に近代的な在り方における「作品」というものに、ある種絶対的な信頼を置いているように見える点が特異であるが故にとても語りにくい。しかし、梅津の作品周辺における行為の射程と姿勢、矛盾を恐れない複合的なあり方とが、朧げに浮かび上がらせる美術という営みの輪郭のようなものが、見る側の欲望の次元に、様々な角度から「美術とはなにか。」と繰り返し問いかけてくる。それは、ウォールがエッセイで触れていた、人間は、自然を調査・研究し、ガラスの向こうに閉じ込める為に光学のような技術を作り出したが、自然そのものが知性であり、それによって私たちは実の所、自然によって調査・研究されているのだと言っていた構図と似ている。作家にとってその営為の礎でもある近代的な作品の在り方が、美術を構成するものの中枢から、いずれ失われるのかもしれないとして、次にそこに何が来るのか。それともそういった考え方自体がもう無効であるのか。自らの理念や都合、依って立つ基盤そのものすらが更新され、「私」すらも乗り越えられていくことこそが「美術のおもしろさ」ではなかったか。梅津のLiquid Intelligence へのとでもいうような欲望が、今後どこに流れてくのか注視したい。

(*1)美術手帖 展覧会紹介記事タイトル。https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/24594

(*2)Photography and Liquid Intelligence, Jeff Wall https://photohistoryandtheory.files.wordpress.com/2017/08/wall_liquid_intelligence.pdf
リンク出典:History and Theory of Photography: The Archive, Desire, & Writing with Light by Dr. Jill H. Casid, University of Wisconsin-Madison

(*3)ワタリウム美術館 展覧会紹介文http://www.watarium.co.jp/jp/exhibition/202109/


播磨みどり
1976年生まれ。2000年に女子美術大学絵画科版画コースを修了。2001年から2017年までサンフランシスコ/ニューヨークにて活動の後、現在は神奈川県にスタジオを構える。
雑誌や新聞など既存のメディアをアーカイヴァルペーパーなどにゼロックスコピーし、それらを貼り合わせて中空の張り子状の立体作品を制作することで知られている。現代社会に溢れる視覚情報の断片を拾い集め、つなぎ合わせることで表象不可能な現代社会の問題をそこに浮かび上がらせる手法に、直感的な美しさの発見を結びつける仕事が高く評価されている。近年は民主主義の枠組みと精神を日常の消費を起点に考える「Democracy Demonstrates」のゴミのコラージュ作品など新しい展開の作品を意欲的に発表している。近年の主な展覧会に「Lyrics, Gestures and Games」(2017年・Kala Art Instituteバークレー)「The Big Scene: Seven sights」(2015年・MMCA 韓国国立現代美術館 ゴヤンレジデンシー)、「Roadside Picnic」(2014年・FLYNNDOG、バーモント)「Ridden」(2013年・Des Lee Gallery, ワシントン大学、セントルイス)、「日常ワケあり」(2011年・神奈川県民ホールギャラリー、横浜)などがある。
https://harimamidori.com/



梅津庸一展 ポリネーター
ワタリウム美術館
2021年9月16日(木)  - 2022年1月16(日)
休館日(月曜日(9/20、1/10は開館)、12/31-1/3)
http://www.watarium.co.jp/jp/exhibition/202109/



レビューとレポート第31号(2021年12月)https://note.com/misonikomi_oden/n/ne056f12e9a72