コロナウイルス体制以降における美術・再考(3) 土屋誠一
クレア・ビショップ『ラディカル・ミュゼオロジー』の議論そのもの、というより、そこで議論されている諸前提について、前回いくつかの疑問点を挙げた。私自身、世界各地に点在する美術作品=歴史的資産としての「コモンズ」を尊重し、それらを媒介してのインターナショナルな連帯を表明することに、同調する立場ではある。しかし、物理的身体を伴って、世界各地を飛び回り、心底からなのか儀礼的なものなのかはともかくとしても、その都度都度「連帯」を相互確認しあい、ともすれば新たなるプロジェクトの展望を画策するような処世は、端的に言ってかなり「しんどい」。ビショップの提示するような美術を介するコミュニケーション空間は、単純化の誹りを恐れずにあえて言えば、「意識高すぎ」る「リア充」っぽいのだ。
加えて、「世界各地」という規模で考えれば、そのグローバルなモビリティを確保し続ける資金(つまり、アゴアシ代、である)を維持できるのは、経済階層的な観点から言って、そう多くの人間が実践できるものではない。そうした、身も蓋もない観点からすれば、ビショップが批判の前提とするような新自由主義エリーティズムと、ビショップが選択する左派エリーティズム的立場とは、双方ともに「意識高すぎ」る「リア充」であることを維持できるという経済力を背景にしているという点では、相対的に前者のほうが強者であるという差はあれども、どちらの立場を取ってもエリーティズム的エートスを伏在化しているのは一致している。
ここで私は、「どっちもどっち」論を強調しようとしているわけではない。私自身の政治的スタンスとしては、後者の立場に親和的ではあるが、かといって、ビショップが厳しく戒めるほど、前者の立場に全面的に批判的にあろうとは思わない、ということだ。例えば、日本国内におけるブロックバスターの展覧会ということで言えば、「フェルメール」なり「伊藤若冲」なりといった固有名が冠された展覧会が開催されれば、人口密度の極めて高い展示空間が発生することは、言うまでもない。そうした展覧会は、新自由主義的な価値観を強固にするだけだから、観に行くべきではない、と論を組み立てることはできるかもしれない。しかしそれでは、フェルメールの真作が1点しか展示されておらず、あとは同時代のオランダ絵画の画家の作品ばかりだとしても、その展覧会の構成は、展示に供された作品群に対して誠実であると言えるだろうか? という問いは生まれるかもしれない。
けれども、誠実であるかどうかは場合によりけりであろうが、無意味であるかと言えば、決してそんなことはない。フェルメールの真作のみにしか、フェティッシュな欲望を抱けないという事例もあろうが、同時代の二流、三流(駄作ではなく)のオランダ絵画を「ついで」に観ることができるのであれば、たとえフェルメールの作品を1点しか観ることができずとも、通常よほどの専門家でもない限り注意を払わないような作品と、偶発的に遭遇することで得られるものはゼロではないからだ。こうした、ブロックバスター的展覧会の「余禄」は、新自由主義的エリーティズムに根差しているかもしれないとはいえ、そこに教育的効果が皆無であるとは、実は言えない、という点は見逃すべきではない。つまり、ブロックバスターにはブロックバスターなりの、非大都市部においても、それなりに有意義な作品を相対的に気楽に観に行くことができるという、教育的な公共性と機会均等の潜在力があるのだ、ということは認めるべきなのである。
けれども、ブロックバスターならブロックバスターなりの、そこで果たされる公共性がサスティナブルなものかどうかと考えると、それはそれで疑わしい。少なくとも日本国内において、全国規模のマスコミが、その資金的バックボーンとなって、展覧会の実現に寄与してきたところが大きいわけだが、そもそも新聞・TVといったマスメディアのコングロマリットが、社会の下部構造となるだけの体力を既に失っている。ここ数年の、全国紙の年度決算の報道を見れば、経営的にジリ貧であることは、素人にでもわかることである。つまり、報道メディアが大資本によって運営されることは、今日の様々なネットメディアの乱立を確認すればわかるとおり、もはや持続されないと考えたほうがいい、ということだ。「お芸術」的教養主義ではあれ、フェルメールなり印象主義なりを、海外の美術館やコレクターから借り出し、それらを「展覧会」というパッケージで展示に供するという「公共性」すらも、既にその存立基盤を喪失しつつあるのだ。展覧会のスポンサーが、公益性の目的で、その資金をもって社会に還元するということから手を引き、日本国内で海外に所在する作品を、徐々に観ることができなくなってくるのであれば、その解法は二極化するであろう。
ひとつは、多くの観客を望まずとも、入場料収入でペイできるような、展覧会という「商品」を高額化する方法、もうひとつは、昔ながらの旅行代理店のプログラムとして「~先生と行くルーヴルの旅」という団体旅行パッケージの売り込みに戻るか、である。後者は、なにも美術批評家や美術史家のような、芸術それ自体の探究を自己目的化する傾向にある専門家に委ねるのではなく、「アート思考」なるビジネスパーソン向けの自己啓発の推進者(こうした人々が非専門家とは言わずとも)が、実地見学としてその手腕を発揮することであろう。
以上はある程度歴史的に認定された美術家や美術作品についての展望ではあるが、現代美術の場合はどうであろうか? ブロックバスターよりも、経済的なリスクが相対的に低いものとして、そもそもが、労働量に比して相対的に低賃金である国公立美術館の学芸員の自助努力と自己搾取による、同時代の「売れっ子美術家」とは言い難い美術家たちとの相互搾取による、「野心的な展覧会」は、今後も継続するであろう。ビショップが『ラディカル・ミュゼオロジー』において擁護するのは、(いささかラディカルさに欠けるとしても)こうした類いの美術館活動であろうが、武士は食わねど高楊枝的なラディカルの継続が、公的セクター内部における「アクティヴィズム」として展開されるには、そもそもの無理がある。内実としてはプロレタリアートでしかない左派エリートと、プロレタリアートであるオルタナ右派的なメンタリティは、根本的に相性が悪いだけでなく、貧困層の細分化されたクラスタ間の対立が、プロレタリアート、もっと言えばプレカリアートの自滅によって、社会の階層転覆のリスクを減じ、経済的階層構造をより強化することに寄与する点において、誰が得をするかは自明である。
他方、クーンズやハーストのような、ビショップが敵対的に考えるような、美術市場に積極的に介入し、微温的な露悪性のセンセーションによって羨望と蔑視(このふたつは、この文脈においては等価である)を向けられるタイプの美術家は、その利害関係においてますます富裕層のテリトリーを強固にし、ニュースソースという非実体的な流言を提供するにとどまることだろう。あるいは、まだ辛うじて「公益性」を維持しているように見える私立美術館が、社会還元よりも収益を優先するように将来転換する場合、ますます市民の足は、美術館から遠のくのは間違いない。例えば、森美術館の入場料が、現在は2000円程度(学生であればもっと安いが)であるところを、今後、5000円となることも、あり得なくはない。映画一本を鑑賞する程度の価格帯から、アミューズメントパーク程度の支出額まで増大すれば、相応のスペクタクル的体験を「消費」できないと、一般的に言って観客は納得しないであろう。
展覧会を観ていない上で、あえて批判的文脈で例を挙げれば、国立新美術館で開催されていた「佐藤可士和展」などは、展覧会のスペクタクル的転回とでも言うべきものであり、それが「美術」であるのかどうかは、二次的な問題に過ぎない。加えて、展覧会のドキュメントであり、研究リソースの展開の場である、展覧会カタログの悪しきグローバルスタンダード化(漸進的な高額化)もまた、カタログという書物を通じて美術について「復習」するという批判的学習機会を漸減させる(結果的に、批判精神の涵養を阻害する)ことにもつながる。
以上の、暗澹たる見通しは、直接的にはコロナウイルスの流行とは関係ない。一握りの富裕層と、それ以外の貧困層といった、不公正な経済格差の進行がもたらす、つまるところ「カネ」と社会の問題であり、こうした状況は、既に今世紀に入ってから、あからさまに進行してきた事態である。コロナウイルスの流行は、こうした状況を「後押し」したことは間違いなく、モビリティを前提としたビショップの左派的連帯のモデルですら、そもそも「移動」が経済的かつ心理的に抑制されざるを得ない状況においては、成り立たなくなると言える。左派的連帯のモデルについて考えるにあたり、近年邦訳刊行された書物をいくつか紹介してみたい。
例えば、フランスの哲学者・美術批評家であるイヴ・ミショーの『現代アートの危機』[註1]である。この書物の原著は、1997年に刊行されたものであり、しかも、この書物が論及の対象としているのは、1990年代のフランス国内で起った、現代美術擁護派と、アンチ現代美術派との論争である。ゆえに、フランス国内の当時の雰囲気を知らない私からしても、随分古い議論をしていると感じざるを得ず、なぜ20年以上も経過した、フランス国内のかなりドメスティックな文脈に根差す著作が、わざわざ日本語訳されたのか、いささか首を傾げないでもないのだが、ミショーのこの書物の議論は、批判的には検討に値する。私なりにこの書物の内容を要約すると、フランスを代表する現代美術の美術家(本書では、ダニエル・ビュレンがとりわけやり玉に挙げられる点が、なおさら時機を逃している感を強く覚えさせるのだが)やその擁護者たち(ティエリー・ド・デューヴ、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン、カトリーヌ・ミエなど)の、「前衛」の伝統を温存した左派エリーティズムに対して批判を企て、現代美術が公衆に対して前衛として振る舞う(大衆の「趣味」に対する敵視と相補的である)ことに警鐘を鳴らし、それはあくまで、市民や公共圏との対話を維持しつつ、社会の中で醸成されるべきものである、という主張である。なお、ミショーは単なる保守主義者というわけではなく、私なりの観察に基づいて言うならば、思想的・政治的スタンスとしては中道左派、かつ文化的保守主義、と位置付けてよいだろう。
このミショーのような、物わかりのよい教師然としたスタンスは、90年代であれば、まだそれなりに多様な意見の中のひとつと見えただろうが、2020年代にも突入した現在の視点からすると、結果的には最悪の現状維持を主張しているだけのように見える。というのも、ミショーのような観点を、ミショー個人の趣味判断にとどめておくならばそれでいいが、社会思想の進展と芸術の前衛を弁別するこのスタンスを擁護する限りにおいては、かならず、前衛的、あるいは抵抗的な表現は、公衆の同意を得ていない以上、排除されても仕方ない、というロジックに接続されるからだ。これは奇しくも「あいちトリエンナーレ2019」と同年に邦訳刊行されたという点を合わせて考えるならば、勿論日本語訳者たちがこの年に日本語版を刊行することを企んだなどとは言わないまでも、現代美術に対する市民的観点からの憎悪の淵源は、ポスト構造主義「以後」、あるいは冷戦終結の90年代に、既に噴出し続けてきたということが理解できる。
ミショーのようなリベラルな文化保守主義とは真逆においても、現代美術のある側面は攻撃される。惜しくも昨年没した、アナーキストの文化人類学者である、デヴィッド・グレーバーは『ブルシット・ジョブ』において、エッセンシャル・ワークを下位化させ、ブルシット・ジョブを増殖させる中間的エグゼクティヴたるマネージャーの領域拡大の事例として、「ビジュアルアートもしかり。そこではここ数十年のあいだにキュレーターと呼ばれるまったくあたらしい管理経営的中間職(managerial intermediaries)の増大がある。その仕事はアーティストの作品を集めることであるが、いまやアートそれ自体と同等の価値と重要性があるとしばしばみなされている」[註2]と述べられる。グレーバーは、そう断言はしていないものの、キュレーターという職業が、あっても無くてもどっちでも構わないものとしてのブルシット・ジョブと言いた気であり、正直言えば、私も半ば同意したくなることは表明しておく。美術作品の鑑賞においては、展示にあたってのキュラトリアルな創意に満ちたプレゼンテーションといった展示法に遭遇し、「キュレーターの自意識はどうでもいいので、単に見やすく並べてくれ!」と叫びたくなる時は、ないわけではない。キュレーターの役割を、ブルシット・ジョブと規定することはできないまでも、無意味な手続きを増大させる中間職であるという側面は、確かにあるのだ。自意識と余計な創意に富んで、まともにオーソドックスな作品管理や展示すらできないキュレーター(そして、そういう人物は、必ずしも少ないとは言えない)は論外としても、作品と鑑賞者、せいぜいあとは作品読解を促す付随的なメディエーション(必要最小限の作品解説など)があれば、作品と観者の関係は成り立つと考えるとすると、不必要なコンテクストばかりを展覧会の都度に増大させる余計者と認定されがちなのは、無理からぬところである。
加えて、日本国内の、とりわけ公立美術館のキュレーターならぬ学芸員は、ブルシットどころか、エッセンシャル・ワークをシット・ジョブ(低劣な環境での労働)によってなんとか成立させていることは、言い添えておくべきだろう。ともあれ、グレーバー的観点からすれば、エッセンシャルな労働を作品として提示する美術家が、キュレーターでもギャラリストでも、場合によっては批評家(そうでないことを願うが)といった中間職の増大によって、本来得るに値する対価を中抜きされていると判断されるのも、やむを得ないところではある。
けれども、グレーバーがそれとなく批判的に捉えるような、中間職の増大という点は、そもそも美術というシステムが、必要か不必要かはともかくとして、膨大なコンテクストを要請するという現状と無関係ではないゆえに、そう簡単に「中抜き」と退けることもできないのが実情であろう。ボリス・グロイスは、美術というシステムが、美術家とキュレーターとの職分が分かたれず、結果としてドキュメンテーションの方向へと表現が向かうきっかけとして、「インスタレーション」という側面を強調する。グロイスによれば、インスタレーションを成立させるミディアムは現実の空間それ自体であり、そうであるがゆえに物質的な条件を併せ持つと捉える。と同時に、美術を視覚文化の一様態として捉えることを戒め、その理由として、今日の美術作品を成立させているものは、かならずしも視覚において捉えられる「画像」的なもののみに限定されるのではなく、テキストや非画像的なものであっても、インスタレーションを構成する要素として用いることができるがゆえに、「視覚文化」として美術を捉えると、逆に美術というジャンルの幅を狭めることになるからだ、と述べる[註3]。
そして、こうした美術観を拡張していけば、美術家とキュレーターの職分は分かつことが困難になり、旧来的に「美術作品」と見做されるものから、一回性のパフォーマンスのドキュメントから、その他アーカイヴにおける美術と直接的に関係を持たない雑多なコレクションであっても、その都度その都度の展示の機会において、「アート・ドキュメンテーション」という実践を、美術家なりキュレーターなりが果たす、という論理になる。グロイスのこの見立ては、確かに現代美術の実情のある側面を、うまく言い当ててはいる。こうした見立てが、先に述べてきたような、ビショップの擁護する「ラディカル」な美術館の実践と、直接的に繋がることになるわけだ。
けれども、グロイスがインスタレーションの成立条件を、現実の空間をミディアムにすると規定したように、そしてビショップが、美術館の、主としてコレクションに根差した展示の水準においてその「ラディカル」を探求したように、ここには物理的な限定があることを、やはり指摘しないわけにはいかない。すなわち、複数の作品や資料が展示されている具体的な地理的限定に依拠している限りにおいては、ビショップは美術館のコレクションやアーカイヴを「コモンズ」と呼ぼうとしてはいるものの、先述したような理由において、ちっとも「コモンズ」ではないからだ。
作品が特定の場に置かれる、そして少なからぬ場合、オリジナル一点しか存在しない希少性ゆえに、人類の共有材として、管理・保全が美術館という公共機関に委ねられる、理屈の上では立派な理念に基づいているし、具体的にも、芸術作品を擁護する立場からすれば、そうした美術館活動が無くては困る。けれども、美術館に収蔵されれば、作品は即共有財になるかと言うと、「現実的には」そんなことはなく、例えば私が、個人的にとても関心があるからといって、セザンヌの水彩画の数点を、オルセー美術館の収蔵庫に熟覧しに行こうとしても、よほどの理由と人的コネクションがない限りは、ほぼ不可能である。
勿論、コロナウイルスが流行して以降も、美術作品と対面することは可能であるが、国内旅行はともかく、海外旅行へは、出国はできたとしても、入国すらままならないような水際対策が各国で展開されている現在、美術作品と、先のグロイスが言うような観点からの現実空間で「対面」することが、そう容易いことではないという、当たり前の事実に改めて気付かされるわけだ。美術作品、とりわけ美術館に収蔵されているそれは、理念的にはコモンズであり得ても、現実的にはいささかもコモンズではないということは、つまりはそういう観点からだ。
斎藤幸平は『人新世の「資本論」』において、マルクスの『資本論』における、本源的蓄積論に着目する[註4]。資本主義における商品の価値の生成と増殖は、暴力的なコモンズの収奪による、人工的な希少性の増大によって成立する。このことは、美術マーケットが、根本的には希少性の操作によって成立していることを見れば、美術においては典型的にそうした側面が表れていることを理解することができるはずだ。
美術館は、理念的にはコモンズであることを指向しているにもかかわらず、現実的には本源的蓄積による資本主義の強化に寄与している、ということだ。なにも、我々はフランス革命の際のように、ルーヴルを解放する必要はない。美術館という制度を打ち壊すのではなく、美術館を真のコモンズとするために、積極的にコモンズ化を要求すべきだ、ということだ。ある程度は実現しつあるが、マルローの「空想の美術館」の徹底化であり、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術」の果てに夢見た、変革のための価値転換が必要なのである。
斎藤は、「未来の選択肢」として、四つの様態を権力と公平性を軸とした四象限にマッピングする[註5]。ひとつは「気候ファシズム」であり、新自由主義の果ての、強者の論理を指す。これは、美術マーケットを軸とした、美術に触れる機会を、富裕か貧困かの属性によって弁別する(つまり、金持ちのみが、美術作品にアクセスできる)と言い換えることができる。次に、「野蛮状態」であり、医療や経済機構の崩壊による、統治機能の喪失である。コロナウイルス流行とは関係ない事例ではあるが、京都アニメーションへの放火テロのような惨事が、美術館においても起こらないとは限らない(私の居住地で言えば、沖縄島の首里城火災に伴い、収蔵されていた文化財が焼失した。これは放火ではないにせよ)。
それから、「気候毛沢東主義」であり、これは統治権限の徹底化を指し、個人の監視や処罰、移動の禁止といったものである。必ずしも中国に限らず、欧州諸国でのロックダウンもまた、ここに含まれる。これは、美術とは関係ないと思うかもしれないが、そんなことはない。「あいちトリエンナーレ2019」の際の文化庁の補助金不交付など、表現の自由への侵害や、思想調査などにも繋がる点であり、この問題から美術が自由なわけではない。最後が「脱成長コミュニズム」となるが、これこそが、美術作品のコモンズ化という建前と、本源的蓄積という現実との矛盾を解決する道だ。
なにも、個人の所有物まで、すべて公開すべきと主張したいわけではない。そうではなく、少なくとも美術館に収蔵された作品は、理念的にはコモンズであるがゆえに、現実的にもコモンズ化をすべきだ、ということだ。勿論、それこそ本源的蓄積に関わる「著作権」の問題もあり、個人の権利である著作権を手放せと要求するのではない。欧米で、展覧会カタログのデジタル公開が、近年かなり進んでいることを鑑みれば、著作権問題をクリアするのが根本的に不可能というわけではなく、デジタル化にあたってのマンパワーと、それに必要な公的資金が投入されていないだけである。ゆえに、エッセンシャル・ワーカーである学芸員の努力不足ということではなく、資金源である国家なり自治体なりの見識不足であり、国際的なコモンズの共有に対する背信を責められても仕方がないだろう。
美術館に収蔵されている作品に、せめて画像だけでもアクセスできない状態は、美術館がコモンズであることを自ら拒否し、鑑賞者の地理的・経済的な選別と排除を無意識として行っている、ということを主張しているとも言える。
このように考えていくと、美術作品に対する「作品鑑賞」という行為とその価値づけに、根本的な変革が求められるのは避けられない。
一般に私たちは、実物の作品なり、現実の空間に展開されている作品群なりを観て、作品の良し悪しや、展覧会のテーマ設定の妥当性などを判断することが常識であるとしている。けれども、この実体験至上主義的な鑑賞の価値づけは、美術作品へのアクセスを限定化する(実際、コロナウイルスによって限定化させられている)わけであり、こうした価値づけそれ自体に、とっくに無理が来ていると考えたほうが妥当なのではなかろうか。なぜなら、例えば私たちは美術作品の鑑賞教育において、どこの地域の美術でも構わないが、教養的な通史において必ず取り上げられるようなマスターピース「すべて」ですら、実物の作品と対面した経験を持っている教師など、恐らく一人もいないわけであり(一体どうしたら、今日の西洋美術史の通史を教える教師が、ラスコーの壁画の実物を観ることができるというのだろう)、かといってそれら教師が教えている内容が正当性を持たないなどということはない、ということは、とうの昔から継続してきたことであるからだ[註6]。
言い添えれば、これは、貧乏人は複製物で我慢しろ、という話では全くない。そうではなく、資金に任せて世界各地の美術の現状をよくリサーチしているという人間が、単にそのことのみにおいて、美術の良し悪しをジャッジするという特権性など、実のところどこにも保障されているわけではない、ということを明らかにするはずだ。
そもそも、美術作品と遭遇するということそれ自体が、ベンヤミン的なオーラを経験する体験なのであり、その一回性の衝撃は、実物の作品を実見する多寡とは相関しない、ということだ。作品を麻痺するまで大量に実見すれば、そこにはいささかのオーラも宿らず、単なるディスプレイにしか見えない、ということは、作品を観る専門家であれば、一度も経験したことがないはずはないだろう。展覧会レセプション族の業界人には、少なくとも私は作品が見えているとは思えない。
コロナ禍において、「脱成長」かどうかはさておき、アーティストたちがオンラインビューイングなどの取組みに積極的に参加したのは、こうした「コモンズ」のひとつの手掛かりかもしれない。いくつかの美術館の、インターネットを利用しての試みもしかりである。パンデミックによって、社会全体においてプラスになったことは皆無ではあろうが、少なくとも美術において、今後どうあるべきかの構えだけは、明確になったのではないかと思われる。少なくとも、私が希望をかけるべき場所は、明確になった。
終
[註1]イヴ・ミショー『現代アートの危機 ユートピア、民主主義、そして喜劇』島本浣・中西園子訳、三元社、2019年。
[註2]デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳、岩波書店、2020年、240頁。
[註3]ボリス・グロイス「多重的な作者」『アート・パワー』石田圭子・齋木克裕・三本松倫代・角尾宣信訳、現代企画室、2017年、150-163頁。
[註4]斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020年、233-276頁。
[註5]同上、280-284頁。
[註6]このような複製物を通じての鑑賞とその分析の好例が、『レビューとレポート』15号(2020年)掲載の、gnck「マネからはじめよ」である。
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土屋誠一(つちや・せいいち)
1975年生まれ。美術批評家、沖縄県立芸術大学准教授。共著に『絵画検討会2016』(アートダイバー)、『現代アート10講』(武蔵野美術大学出版局)、『批評 前/後 継承と切断』(ユミコチバアソシエイツ)など。
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連載の1~2はこちら
コロナウイルス体制以降における美術・再考(1)
コロナウイルス体制以降における美術・再考(2)