コロナウイルス体制以降における美術・再考(2)

土屋誠一(美術批評家・沖縄県立芸術大学准教授)

 さて、前回予告した通り、クレア・ビショップ『ラディカル・ミュゼオロジー』について、検討していきたい。最初に断っておけば、ビショップが本書で取り上げている個別の事例については、私自身ほぼ批判するつもりはない。ただ、本書での議論における根本的な価値判断が、ビショップがあたかも所与の前提であるかのごとく語っているように、本当に無条件な与件として共有できる妥当性を持っているのかどうか、その点に疑いを持たざるを得ないというのが率直な感想である。

 ビショップがこの書物において、敵対的な対象として考えているものは、近代以後のミュージアムが掲げてきた公益性から、ミュージアムそれ自体の運営や、そこでの現代美術の展覧会が、徐々に文化産業化していき、それらが覇権を握っていくという現状である。具体的には、それぞれ接頭辞に「メガ」が付くようなギャラリーやディーラーやコレクターといった、経済力を背景としたブロックバスター展の実施や、あからさまな利益誘導といったものであり、それらを「民営」と呼んで批判的に捉えている。このようなミュージアムにおいて展開されるコンテンツの文化産業化が、近年になればなるほど亢進していくことは、ビショップが論述の対象としている先進国では常態化しており、「現代」美術に限らず、日本国内でもしばしば観察することのできるものである。つまり、公益性よりも利益追求を、というものであり、斜陽からの復活後のハリウッド映画がそうであるような、莫大な資本投下によって、投下した資本よりもさらに莫大な利潤を、という産業形態と準えてもよいだろう。そこでは、仮に物故したモダンあるいはコンテンポラリー・マスターの作品であっても、とりわけ今世紀以降のハリウッド映画の多くがそうであるように、決して抜本的ではない差異化によって、消費意欲が促進されることを目指すために、適度に刺激的で「現在」のトレンドを反映しており、フォトジェニックであるため、SNSで写真が流通することで顧客が積極的に広告代理店の役割を果たしてくれ、しかし同時に決して「炎上」せぬよう、PCからの過剰な逸脱はしない程度に保守的である。仮に、プレゼンテーションされる作品が、根本的にポレミカルな要素を持っていたとしても、それをソフトに覆い隠すような工夫を一生懸命にこなす。なにより、公益性よりも、資本主義のシステムを滞りなく回転させるために利益を上げることが、システムの維持にとって重要なのだから。だから、資本主義体制下における「民営」であることが、グローバルなアート市場においては、重要になる、というわけだ。

 このような市場原理に抗して、ビショップが掲げるのは、次のようなものである。

 私が弁証法的同時代(コンテンポラリー)と呼ぶものは、多数的な時間性をより政治的な領域のなかへと誘導する試みである。[註1]

つまり、ミュージアムにおける現代性、あるいは同時代(コンテンポラリー)であることの意義とは、同じく「現代」に制作された作品同士であっても、時代的、文化圏的、その他さまざまな異なるコンテクスト相互が「弁証法的」に対話し、広義の政治的な想像力や読解を促す状態が望ましい、というわけだ。ゆえに、ミュージアムにおけるプレゼンテーションにおいて、重要な役割を果たすのは、キュレーションということに必然的になる。そして、ビショップが望ましいと考えるところのミュージアムにおけるキュレーションの事例として、オランダ・アイントホーフェンのファン・アッベミュージアム、スペイン・マドリッドのソフィア王妃芸術センター、スロヴェニア・リュブリャナのメテルコヴァ現代美術館の展覧会キュレーションの事例が、肯定的に取り上げられ、論じられている。

 では、具体的にはこれら3つの事例の、どのような点が肯定されているのか。ファン・アッベミュージアムにおいては、2006年から長期にわたり持続的に展開された「プラグ・イン」という、自館のコレクションをラディカルに活用した、インスタレーション的なプレゼンテーションによる展示だ。ビショップが特筆しているのは、自由主義社会における、共産主義体制下での前衛美術としてのロシア・アヴァンギャルドの受容についてのプレゼンテーションや、中東問題に関するコメンタリーとしての作品群の提示や、自館のコレクションであるピカソのタブローを、パレスチナで展示するといった取り組みである。こうした取り組みを肯定的に取り上げながら、ファン・アッベミュージアムのアクティヴィティを、「歴史を物語る政治的闘士(パルチザン)」[註2]と評する。

 次に、ソフィア王妃芸術センターの活動については、このミュージアムで開催される企画展ではなく、コレクション展示の挑戦的な取り組みが評価される。ビショップによれば、スペインの、他の西ヨーロッパ諸国においても 積極的に展開された植民地主義という過去の負債に対する自己批判、という点が、肯定される。それは単に、ポスト植民地主義的なプレゼンテーションを積極的に行うというだけではなく、コレクションを「コモンズのアーカイヴ」として捉えることで、実践的に脱(ポスト)植民地的であることを目指し、国立の機関であるこのミュージアムが、スペイン一国のための財産なのではなく、同時にマルチカルチュラルな相対主義を前景化させるだけでもなく、国家、人種、文化にかかわらない、あらゆる人々に開かれた「コモンズ」(共有財)とすることを特筆している。加えて、植民地主義の反動として出現した、ラテンアメリカの独裁政権に抵抗する、共産主義者のアーティストグループのコレクションを取り上げ、周縁諸地域におけるコンセプチュアル・アートにしばしば見られるような、「作品」は残存していないか一時的なものであり、ドキュメンテーションのみが残っているような事例を挙げつつ、美術作品とドキュメンテーションの価値の序列が、むしろ事後的にはドキュメンテーションのほうが高くなるような、政治的状況に介入する美術を擁護する。

 最後の、メテルコヴァ現代美術館については、美術館の運営資金上の苦境に抗して、それでもなお先鋭的な展示を維持している点が称賛される。ビショップが挙げている例は、スロヴェニアにおいて新自由主義的スタンスの政党が政権を奪取した際の、劇的な予算カットに抵抗して行った、コレクションを繰り返し展示した「反復」というシリーズだ。このシリーズにおいては、財政上のプラクティカルな苦境が率直に陳述されながら、同時に、同じ展示が反復して行われることの積極的な意義の強調、例えば、常に新しい展示が行われていることを是とするのではなく、展示の再読可能性の強調、あるいは、そもそも現代美術が、ヴィデオループや再上演といった反復的構造を持っているがゆえの妥当性、といったように。それだけでなく、反復それ自体が歴史を構築すること、さらには旧共産圏の国家であるトラウマの反復といった点も、展示自体の反復の妥当性として陳述される。

 このような事例が指し示す通り、ビショップの立場は明確だ。新自由主義、あるいはグローバル資本主義に資するような美術館運営は文化産業的収奪であり、ゆえに、左派リベラル的な、たとえ財政的に苦境に追い込まれていようとも、現実の政治に介入するような美術館運営こそが必要なのだ、と。現代美術を擁護する人間であればそのほとんどが、多かれ少なかれ文化左翼的精神を持っていると思われるが、私も前者と後者のどちらかを選べと言われれば、後者を擁護する。ビショップは、この3館の事例を挙げつつ、豪華なコレクションの単線的な、可能な限り個々の作品が映えて見えるようなプレゼンテーション(これを、かつてハル・フォスターが批判的に述べた「MoMAイズム」と呼んでもいいだろうし、あるいは単に、ホワイト・キューブ至上主義と呼んでもいい)を退け、ヴァルター・ベンヤミンから借用するコンステラツィオン的な攪乱としてのインスタレーション的展示を是とし、過去の瓦礫(であるがゆえに、必ずしも「作品」である必要はなく、過去の印刷物や写真記録といった、ドキュメンテーション一般にまで、配置される「星」のあり方は拡張されてよい)の個々が「星座」として呼応し合う状況を擁護する[註3]。ゆえに、時代的、文化圏的、人種的に相互が異なるコンテクストに帰属するオブジェクトであろうとも、例えば、南米と東欧の国家権力に対して抵抗的なパフォーマンス・アートの痕跡(ドキュメンテーション)が呼応し合うといったように、観者に反省的・内省的な思考の回路を促し、そのようなアナクロニズムからこそ、喫緊の課題に立ち向かう「コンテンポラリー」という実践が立ち上がるのである、と。そしてそのような実践を可能にするミュージアムの意義が、誰しもアクセスが可能である「コモンズ」であることに、その重要性がある、という論理になる。グローバル、というより、マルクス主義的な用語を持ち出せば、このようなインターナショナルな連帯にこそ、コンテンポラリーであることの可能性に対する賭金があるのである。

 ビショップの主張には、基本的には同意する。しかし、全面的に肯定できるかと言えば、そうとも言えない。ビショップの擁護する対象は、それらがマイナーな価値を提示しているという点において、極めて民主主義的な正当性を持っているため、「正義」という側面から考えれば、批判するにはあたらない。勿論、民主主義が、単に多数決の論理であるのではなく、様々なマイナーな立場やその価値をも包摂するものである、という前提においてだ。芸術に関わる多様なオブジェクトを「コモンズ」として捉え、特定の権益者のみに帰属しないという点もまた、魅力的な提言ではある。しかし、コモンズとしてのアーカイヴを、都度の展示においてオペレートする「主体」については、いったいどう考えればいいのか?コモンズのなかの個々のオブジェクトには、それらオブジェクトを生産した主体が、それが単独の人物であれ、複数の人間によるコレクティヴであれ、存在するはずだ。近代的主体概念(むろん、これを認めるのであれば、人権のような民主主義において基幹をなす概念は無視できない)を擁護するならば、オブジェクトとその生産者、もっと平たく言えば、作品とその作者と呼んでもいいだろうが、つまりはアーティストとその作品は、原則的には最優先に擁護されるべきものであるはずである。しかし、コモンズとしてのアーカイヴを、展示(インスタレーション)としてオペレートし、オペレートされた総体が発揮する「コンテンポラリー」なメッセージを重視するならば、「作品」の地位は複数のオブジェクトが織りなすメッセージそれ自体となり、個々のオブジェクトは「作品」としての地位を喪失しないまでも、相対としてのメッセージを構成する単なるピースとして格下げされるであろう。つまり、ここで起こることは、キュレーターの専制政治であるが、そのこと自体を批判するつもりはない。キュレーションが重大なメッセージとなり得ることは、もはや今日、一般的にあり得ることだからであり、その意義は無視できないと考えるからである。しかし、キュレーターの専制政治であるということそれ自体は、彼/彼女の提示するキュレーションのいったいどこに、反省的/自己批判的な回路を見出すことができるのか。芸術に関わる様々なオブジェクトが呼応し合い、過去の瓦礫の中からコンテンポラリーな意義を創造するのはいいが、そういうオペレートを経ない限り、瓦礫は輝かないのであろうか?むしろ、瓦礫が瓦礫として、それらがドキュメンテーションであれ、パフォーマンス・アートの痕跡であれ、それがそれ自体として輝くというオペレーションはあり得ないのであろうか?ビショップの論理に従えば、ある作品は、同じ空間で共鳴する他の作品とのコンステラツィオン的関係性のなかで「のみ」、その意義を発揮すると読めなくもないが、いずれにせよ、ここで価値が低減されているのは、個々の作品であり、その作品の生産者としてのアーティストなのではなかろうか。

 さらに言えば、それらがミュージアムのアクティヴィティにおける、都度のインスタレーションとして提示されている限り、本質的には民主主義ではない側面も「持たざるを得ない」という、美術における慣習的なふるまいを、あまりにも自明なものとして捉えすぎてはいないだろうか、と問いたくなる。ピエール・ブルデューらが既に明らかにしているように[註4]、そもそも美術館に足を運ぶということ自体に、文化資本や社会階層といった社会的属性が反映されているのは、改めて言うまでもない。ビショップの言う「コモンズ」というコレクションの再定義は、理念としては魅力的ではあるが、世界各地に点在する「コモンズ」を訪れて鑑賞し、そこに深くアクセスすることのできる人間は、美術館が物質的なオブジェクトを今日もなお基盤にせざるを得ない以上、現実的にはちっとも民主的ではないというアポリアからは、逃れることができていない。例えば、リュブリャナまで行き、メテルコヴァ現代美術館の、資金的には潤沢ではないが、刺激的な取り組みを実際に特定の展覧会の会期中に目にすることのできる人間は、かなり限られている。恐らく、スロヴェニア国内ですら、移動にかかる交通コストが支出できない、それこそ「生きるために働くので精一杯」といった人々が、理念的にはそうした人々も「コモンズ」を分有しているとしても、物理的に遮断されているということは、容易に想定できる。

 加えて、潤沢な資金源に基づく「民営」メガミュージアムの覇権主義と、マイナーなものの価値を擁護する、資金的には国際的に苦境に立っている、公共セクターの民主的なミュージアムは、ビショップが言うほど対立するものなのであろうか?例えば、MoMAでジャクソン・ポロックのタブローとじっくり対峙することが反動的かつネオリベラルなものを擁護する「悪」であり、ファン・アッベミュージアムで複雑に展開される複数の作品によるインスタレーション的展示を観ることが「善」であると、本当に言えるのかどうか。マイナーなものは擁護すべきではあるが、同時に、メジャーなもののなかにさえ伏在しているであろう「マイナー」さまでをも否定してしまうのであれば、プルードンに反駁したマルクスの書物から借りて言うならば、「貧困の美術」は「美術の貧困」を招くばかりなのではなかろうか。日本国内で言えば、森美術館に行くのは「悪」で、練馬区立美術館に行くのは「善」であると(以上の例が妥当な比較なのかどうかはともかく)、無前提に言うことはできないだろう。確かに、大資本をバックグラウンドとしたメガ級のミュージアムやギャラリーやコレクターがヘゲモニーを握り、公共セクターや裕福ではない市民のボランタリーな出資による活動が、収奪の対象となるといった、格差の拡大は深刻な問題である。格差の拡大は、自己防衛の無意識的な規制となり、マイナーなものを社会的「正義」として擁護する立場を左派エリーティズムとして、むしろ社会的憎悪の対象として敵視するように促す。ひいては、美術それ自体が、左派既得権益層の利益とみなされ(実際にはそうではないが、ここではファクトであろうがフェイクであろうが、その判断は本質的には問題とされない)、忌避されることになるだろう。

 ビショップが擁護しようとする「コンテンポラリー」は、19世紀後半から始まる芸術におけるラディカル、すなわち「アヴァンギャルド」のひとつの帰結である。アヴァンギャルドは概ね、公衆の「良き趣味」に対して、それを破壊し、反逆するものとして、自らを前進させる駆動力としてきた。例外的にロシア・アヴァンギャルドが、政治の前衛と芸術の前衛を一致させるものとして、ごくわずかな期間に豊かな成果を残したが、スターリニズムにおいて弾圧され、社会の要請と前衛芸術の意義を一致させるプログラムは、未完のユートピアと化した。今日なお、ロシア・アヴァンギャルドが「コンテンポラリー」の源流の一つとして参照項に挙げられるのは、ポストモダン以降の今日においてもなお、未完結なものとしての憧憬をかきたてるからであろう。ともあれ、アヴァンギャルドが、同時代の「良き趣味」への反逆たり得ていたからこそ、自らの価値を逆説的にではあるが、社会に対して承認させることが可能であった。しかし、概ね1970年前後にアヴァンギャルドのプログラムが破綻したのち、その精神は伏在させつつも、公に「アヴァンギャルド」であると明言することは憚られ、「コンテンポラリー」と自らを呼称しなければならなくなった今日において、芸術は、「芸術の前衛」を目指すのではなく、むしろ「政治の前衛」であることでしか、自らの「コンテンポラリー」であることの根拠を説明し得なくなってしまったように思われる。アヴァンギャルドの時代において、「芸術の前衛」としての芸術は、社会的承認に反逆するからこそ、民間のパトロネージュによって、その活動の原資を維持し得たのは、歴史が証明することである。しかし、ビショップの主張に従うならば、「政治の前衛」としての芸術は、現在への反逆であるにもかかわらず、公的セクターにおいて擁護されない限り、その活動を持続することができないという自己矛盾を抱え込まざるを得なくなった。その自己矛盾自体を批判するつもりはないが、その自己矛盾を承知しつつも、社会への承認を迫る、具体的には公的セクターによって維持・運営されるミュージアムに保護されるべきと主張するのは、明らかな後退戦であることを、認めざるを得ないのではなかろうか。これは苦渋の認識ではあるが、見て見ぬふりをしていては、後退戦自体が根本的な敗北へと、押し切られてしまうのではなかろうか、と危惧を抱くものである

 ともあれ、ビショップが擁護するような、美術の「コンテンポラリー」におけるラディカルな政治の介入といった価値もまた、コロナウイルス流行以後、その活動を大幅に停滞させざるを得ないという、さらなる苦境に晒されているのが現状である。ビショップは、グローバル資本主義(ビショップ自身は、「新自由主義」と呼んでいるが、言わんとするところに大きな差異は無いだろう)の展開とその覇権に対し、次のように結ぶ。「この世界において美術館は――さらには文化、教育、民主主義は――、スプレッドシートの陳腐さや世論調査の統計的まやかしに服従せず、我々が、豊かで多様な歴史へアクセスすることや、現在に疑問を投げかけることや、そして異なる未来を実現できるようにする。」[註5]。けれども2020年現在、そもそも身体の物理的なアクセス自体が制限されるなか、世界各地に点在する「コモンズ」を訪問し、インターナショナルな連帯をするということが困難になっている以上、さらなる後退戦の只中にいると、認識せざるを得ないのではないか。以上のような点を踏まえた上で、ではどのような美術のあり方が構想され得るのか、先日刊行された、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)での議論を検討しながら、考えてみたいと思う[註6]。


[註1]クレア・ビショップ『ラディカル・ミュゼオロジー つまり、現代美術館の「現代」ってなに?』村田大輔訳、月曜社、2020年、31-32頁。
[註2]同上、49頁。
[註3]このようなビショップのスタンスの背景には、彼女自身もこの書物で肯定的に参照しているように、ボリス・グロイスのインスタレーションやドキュメンテーションへの肯定的言辞を踏襲している。グロイス『アート・パワー』石田圭子・齋木克裕・三本松倫代・角尾宣信訳、現代企画室、2017年。とりわけ、同書に収められた論考「キュレーターシップについて」、「生政治時代の芸術 芸術作品からアート・ドキュメンテーションへ」を参照のこと。
[註4]ピエール・ブルデュー、アラン・ダルベル、ドミニク・シュナッペー『美術愛好 ヨーロッパの美術館と観衆』山下雅之訳、木鐸社、1994年。
[註5]ビショップ、前掲書、88頁。
[註6]先取りして触れておくと、斎藤のこの著作では、人新世以後の破局を回避する社会構想として「脱成長コミュニズム」という解を提起している。しかし、斎藤がこの解を導き出す手続きとして、新MEGAによるマルクスの再読はともあれ、「未来の選択肢」として四象限を描いている。加えて、「脱成長コミュニズム」を可能なものにするために、「コモン」や「アソシエーション」といった概念を再肯定するわけだが、この議論は柄谷行人編著『可能なるコミュニズム』(太田出版、2000年)以降の、柄谷行人の議論とあまりにも似ているのだが、柄谷の名はどこにも言及されていない。斎藤のこの書物での議論は、それ自体真剣に検討されてしかるべきものではあれども、肯定的にであれ批判的にであれ、柄谷の言説に言及しないのは、フェアさを欠いているように読まざるを得ない。新書版ゆえの省略なのかどうか判断しかねるが、諸賢の意見をもとめたいところである。


レビューとレポート第17号(2020年10月)