コロナウイルス体制以降における美術・再考(1)

土屋誠一(美術批評家・沖縄県立芸術大学准教授)

 2019年の冬以降、持病による入院・手術といった個人的な事情もあって、ほとんど展覧会を観に行けていない。2月の後半から2週間ほど入院していたのだが、ちょうど、新型コロナウイルス感染症(以下、「コロナウイルス」と略す)のクラスター感染が起こった、大型クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」の、横浜大黒埠頭での長期停泊の是非をめぐって、SNSで議論が紛糾しているのを眺めていたのを記憶している。加えて、日本国内での感染者および死亡者が徐々に増えていったことも、暗澹としつつ眺めていたように覚えている。退院して、せめて勤務先の大学の、卒業生たちの卒業式ぐらいは見届けたいと思いつつ、自宅療養をしながら、既に感染拡大の警戒がなされていたさなかの卒業式(それも、時間短縮での実施だったが)に立ち会うことができたことに安堵し、拡大する感染のニュースを横目に見つつ、新学期を迎えた。(ふと思い出したが、マスクはともあれ、トイレットペーパーの買い占め、なんていうこともあったが、あれもたかが半年前の出来事である。)
 けれども、蓋を開けてみれば、新入生の入学式が開催されないどころか、そもそも大学自体が開校できない。リモートワークが推奨されるなか、大学もまたリモート授業を行うべきであるという方針が出され、業務メールやリモート会議が積み重ねられて、私の勤務先には2020年4月の時点で一切存在しなかった、リモート授業を行うための環境が、ゴールデンウィーク中に突貫工事的に導入され、5月の連休明けから、ようやく新学期がスタートした。私が勤務するのは芸術大学だが、理論系のセクションに所属しているため、淡々と(同時に試行錯誤しながら)座学系のオンライン授業を行っただけなので、この間の制作実技の学生や教員に、芸術の高等教育という点において、どれぐらい苦労があったのかは、実感を持ち得ない。ただ、想像できることとしては、教える側も教わる側も、これまでの対面の授業にあっては実現しえた充分な教育よりも、提供できる技能や知識が低下したであろうこと、そして、そのような低下が、一般的に言って好ましいものではないであろうこと、それぐらいは思い浮かぶ。

 と、そのような個人的回想も踏まえた上で、とにかくコロナウイルス流行という状況に突入してから、展覧会を観に行けていない。理由はいろいろある。定職のほうでのリモート授業の準備という、これまで行ったことのない作業が増えたり、物理的に出勤すること自体が憚られるので、平時なら直接対話で済む議論がEメールでのそれに移行し、メール自体の受信・送信の量が劇的に増加したりして、端的に業務が増大したため、物理的に観に行く時間を割くのが困難であること。私が在住する沖縄において、そう頻繁に開催されているわけではないとは言え、平時であれば観に行くべきものが何もないかと言えばそうでもない程度には、規模の大小はあれ何かしら開催されている展覧会自体が、開催中止やそもそも開催されないといった事態に直面していること。そして、最も大きいのは、物理的に移動することそれ自体に、心理的、社会関係的制約がかかることで、遠方に出かけることすら憚られる、ということだ。ゆえに、展覧会を全然観に行けていない、という結果に陥っているわけだ。とはいえ、美術作品を、この間一切観ていなかったかと言えばそうでもなく、沖縄県内ローカル紙ではあるが、感染者数が比較的落ち着いている際に開催された展覧会の展評を書くために、展覧会を観に行くことがなかったわけではないし、個人的に懇意にしている若いアーティストの作品を観に、スタジオに訪れることもあったし、映像作品であれば、オンラインで配信されたプログラムを教えてもらって、視聴したこともある。作品集や展覧会カタログに掲載された作品図版も含めて「鑑賞」と呼んでいいならば、平常通りに作品を観ていた(勿論、図版だけに、気にかかる作品であれば、実物を観たい思いに駆られるわけだが)とも言える。だから、個人的経験に照らした範囲では、美術に関するアクティヴィティが皆無だったかと言えば、必ずしもそんなこともない。
 勿論、コロナウイルスの流行によって、世界的に美術(に限らないが)のアクティヴィティが低下しているのは、端的な事実だ。展覧会開催がストップすれば、ブロックバスターの展覧会であれ、低コストの展覧会であれ、公立私立問わず、美術館の経営的側面への打撃は大きい。物理的な移動の制約によって、経済活動が停滞するなか、展覧会の開催によって作品売買を促進させるギャラリーもまた、経営上の苦境に立たされることになる。そしてなにより、自らの生産物(作品)の市場への流通によって、生計(そのすべての飯のタネでないにせよ)を成り立たせている美術家に、予定されていた展覧会や、作品納入といった流通活動の中断によって、あらゆるしわ寄せが殺到する。ついでに言えば、作品が流通しないのだから、展覧会評といった同時代批評の活動は特に、その執筆機会を喪失し、原稿料収入は低下する。ともあれ、ジャンルとしての美術に限るわけでは勿論ないが、美術界のどんなアクターであれ、直接的・間接的に、苦境に立たされているのだ。このことは、一般的に考えて、物理的に展開された特定の空間にインストールされた作品と直面することを鑑賞経験と見做す、というジャンル的制約が、コロナウイルス流行下においてより困難さを増大させていると言っていいだろう。
 と、少なくとも私の経験的には(私の在住地がなおさらそう思わせるのかもしれないが)、とりわけ身体の物理的な移動に対する、精神的、社会関係的制約によって、展覧会すら思うように観に行けないというのは、ストレス極まりない。鑑賞のためには日時指定や事前のアポイントメントが必要であったり、マスク着用のうえ「ソーシャル・ディスタンス」の配慮が求められたり、それでもまだ鑑賞できればいいが、そもそも待ち望んでいた展覧会自体が開催中止になったりすれば、鑑賞自体が成り立たない。これでは、展覧会を観るという、平時の所作が強烈に抑制され、かえって「展覧会を観たい」という欲望が亢進され、その不充足ゆえにストレスフルになることは、容易に想像できる。これは、美術の公的活動の、根本的停滞であると言わざるを得ない。
 と、美術に強い関心を持つものであれば、誰しもが思うであろうこと(私も例外ではないが)を、あえて「凡庸」に書き連ねてきた。上述したようなことは、誰だって言えること以上でも以下でもない。しかし、美術のアクティヴィティが低下しているからと言って、何も発言できないわけではない、言うべきことまで抑制されるわけではない(実際に、私はこのように文章を記している)ことは、改めて確認しておきたいと思う。確かに、コロナウイルス流行下において、美術の生産、流通、受容といった活動が抑制されざるを得ないことは事実ではある。けれども、現下においてむしろ問い直すべきことは、私たちが美術に対してアプローチする平時の所作自体が、そもそも自明であったのかどうか、ということなのではなかろうか。ある、時間的・空間的に限定された場所に赴いて、儀礼的関心(あるいはその逆)を向けるという平時の所作のほうこそ疑うべきであり、より深い美術へのアプローチのあり方が、現在再審されるべきなのではなかろうか。なにも、コロナウイルスの流行を歓迎するわけではないが、これを単なる停滞をもたらす害悪としてのみネガティヴに捉えるのではなく、むしろ奇貨として捉えること。このことが、現在私たちに求められている課題なのではなかろうか。
 美術に対するアプローチを再考する手掛かりとして、平時において語られてきた美術に関する言説を、俎上に上げてみたい。今年に入って邦訳が刊行された、クレア・ビショップ『ラディカル・ミュゼオロジー』(村田大輔訳、月曜社。原著は2013年刊)を読んだのだが、この冊子において語られている、現代美術(そう、とりわけ「contemporary」という問題が、ここでは積極的な価値として捉えられている)に対する期待の地平は、ある点では極めて正当な問いかけかつ主張となって記されているのだが、このリーフレット的なヴォリュームの書物において語られている諸々は、前提とすべき価値の地平が、あまりにも「自然」である「かのように」述べられているという点において、強い疑問を抱かざるを得なかったのが、私の正直な心境である。ひとまず以上を導入としつつ、その具体的検証を、この『ラディカル・ミュゼオロジー』で語られていることを軸に、次回はより具体的に検討してみたいと思う。

※追記
 このテキストの校正作業中、9月冒頭まで続いていた、私の居住地である沖縄での、緊急事態宣言が解除され、地元新聞などを見ていても、Go To トラベルの後押しもあってか、観光産業など(言うまでもなく沖縄は、観光業が基幹産業だ)の回復への期待をアピールするような記事が増えている。そして、美術館やギャラリーなどの展示施設、隣接する領域としては音楽や舞台芸術のようなシアターの活動の、ゆるやかな再開なども、紙面で目にすることが多くなってきた。個人的な心情を率直に述べれば、「そろそろ平常時『のような』生活形態を再開してもいいのかもしれない」と思うところだが、コロナウイルスの感染拡大の抑制という観点からすれば、このような時流の変化が、良いことなのかどうか、正直言ってよくわからない。芸術活動の発表自体の停滞が、金額の多寡はあれど、経済活動それ自体を停止させざるを得ない状況を招いているという点では、少しでもアクティヴィティが増したほうが、いや、というよりも、活動自体が「回っている」ほうが経済的にも「マシ」とは言えるが、このような「なんとなく」の緩やかな経済活動再開(とそれに伴う人間同士の接触機会と物理的移動の増大)が、再びクラスター感染の多発を招かないとも限らない。
 といったように、コロナウイルスの流行後の社会のあり方は、都度の感染者数の多寡や、死活問題としての経済活動の再開の必要性といった、(良いか悪いかとは無関係な)場当たり的な都合によって左右されるので、「こうすべき」という明確な回答は、少なくとも私は持ち合わせていないし、私以外の誰かが持ち合わせているということもないがゆえに、誰しも「どうすればいいかよくわからない」のが率直なところであろう。
 ゆえに、今回の拙文の内容もまた、原稿執筆時の心情にもとづいた「場当たり的」なものにある程度ならざるを得ないが、この一連のテキストで述べつつあることは、コロナウイルス流行以後の世界における、美術作品との向き合い方の根本的な条件を述べることを目的としているため、その点は了とされたい。

レビューとレポート第16号(2020年9月)