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今日も腕の中で私は
深く息を吸い込むと夏の夕暮れが肺を満たした。
私は夏が好きだ。
なぜだろう。空気が綺麗な気がする。そう言えば、中学の時の理科の先生が言っていた。「夏は光合成が盛んに行われるから、二酸化炭素の濃度が低くなるんだよ」って。それが関係しているのかは分からないけど、私は夏の空気が好き。特にこの時間帯の空気が。
そしてもう一つ理由がある。
この時期にしか会えない人がいる。
その人と会っている時の空気が好き。厳密には空気感なのかもしれないけど。
彼は何故かこの季節にしか現れない。というか、この時期にしか私に会ってくれない。この間、私は彼に理由を聞いてみた。夏になると前の恋人を思い出すからだとか。そんなに素直に教えてくれるんだ、と思った。残酷だけど、これは見方によっては優しいのかもしれない。何があろうと、あなたと一緒にいるのは元カノを忘れるためだよ、あなたは僕の恋人には決してならないよ、そういうメッセージ。彼なりに期待させないための配慮なのかな、と私は持ち前の肯定的解釈をした。そして精一杯に笑った。
彼には変なこだわりがあった。
それは、待ち合わせ場所が必ず公衆電話であること。
だから今日も私は海辺の近くの公衆電話で彼を待っている。
少ししたら向こうからやってきた。
相変わらず眠そうな目をしている。紺色のデニムに灰色のTシャツ。会うときはいつもこの格好だ。少しは服装に気を使わないのかなと思う。
「なんで毎回待ち合わせが公衆電話なの?」
「なんとなく」
「なんとなくってテキトーすぎ」
いつも思うが、言葉が少ない人だ。無口に加えて言葉に対するこだわりが少ない。彼が饒舌に話した姿なんて見たことがない。何かを伝えようとする意思が欠如しているように感じる。
でも私はこうやって無言で歩くのも好きだ。彼の隣で歩くのは何故だか落ちつく。
夕方の熱気に沈んでゆく夏の時刻。時の流れが遅くなった気がする。
海の向こうでは燃えるような瑞々しい茜色が見える。
耳を澄ましてみる。
微かに波の音が聞こえる。
波の音は不思議だ。季節によって音が違うし、日によっても全然違う。晴れている時は穏やかな音がするけれど、雨の日や風の強い日は少し音が激しくなる。今日はすごく穏やかでゆっくりとした音が聞こえる。散歩をするときに、そういう波の音の変化を味わうことを私は一つの楽しみとしている。
波の音が聞こえるね、って話しかけようとしたけどやめた。なんか恥ずかしいし、多分彼はそういうことには興味がない。何に興味あるのだろう。
横目で彼の横顔を見てみる。
彫刻品みたいに綺麗な鼻だな、と思った。
睫毛が長くて羨ましい。
あんまり見ていると視線に気付かれそうなのですぐに前を向く。
生温い潮風がふく。
いろんなものの影がだんだんと淡くなってきて、夕闇がこの町を青く染めていく。夜の始まりをそっと切り開いていくように、芳香剤の匂いが漂うホテルの中に私たちは入っていった。
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