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「早く届かないかな」×「やることが多すぎる」×♯DB7093

 ピン、ポー……ン。

 引っ越して、4年目。最近、うちのインターホンは調子が悪い。もう少し、スムーズに来客を知らせることってできないのか。

やっぱり、大家に連絡したほうがいいのかなぁ。

「はい。」

 こんな時間に訪ねてくるのは、独りしかいない。

「……もし、俺がいなかったらどうしたの、リク?」

「カイさん、ちゃんと居たから、よくないですか?」

 まだ夜は肌寒い。寝間着は半そでに移行していたけれど、もしかしたら気が早かったかもしれない。しんと冷たい空気を引き連れて、彼女が部屋へと押しかけてきた。

傷がついた白のスニーカーに、黒のレギンスパンツ。グレーのパーカーは、俺の部屋着を勝手に持って行ったものだ。

金曜日の夜。たぶん、仕事帰り。これは、彼女の今日の仕事着であるという証拠なわけで。システムエンジニアなんていう、職業は服装に頓着しなくてもいいのだと彼女が話していたことを思い出す。

洋服が好きすぎる彼女には、珍しい恰好だ。俺と会うときは、絶対に見たことがある服装はしてこないから、なんだか適当といえそうな服を身に着けた彼女は新鮮に見えた。

 スニーカーを脱ぎ捨てた瞬間に、バサッと大げさすぎる音が狭い玄関に響く。革靴と、先週買ったばかりのブラックのスニーカーの間に所存なさげに汚れた彼女の小さな靴が横たわった。なんだか、カオスである。たったの3足、靴が無造作に並んでいるだけなのに。

彼女のギシギシとした雰囲気が、俺にそう見せているのだろうか。

「ん」

 有無を言わせない、という確固たる意志を持って、目の前に大きめの紙袋を差し出される。仕方なく手を出すと、押し付けるようにそれを渡された。ずんと重いビニールの中をのぞくと、350mlのビールが6缶、何種類かの果実で作られたフルーツ酒、適当なチューハイが4本入っている。

「今から、飲むの?」

 時計を横目で確認すると、短針が11、長針が1を指そうとしている。こんな夜から、深酒でもする気か?と、目線を向けると、こちらを見ようともせずに彼女は身に着けていた服を脱ぎだしていた。グレーのパーカーの下から、ボーダーのタンクトップが現れて、思わず目を逸らす。

「何か、Tシャツとか貸して。あと、前に置いておいた短パン。」

 俺の質問には答えず、自分の要望だけ押し付けてくる傲慢さが、今はちょっとだけ腹立たしい。仕方なく、その辺に置いておいたシャツと洗濯をしておいた短パンを渡すと、布と皮膚が擦れる音が聞こえて、何を言わずに洗濯機に向かって歩いて行った。

—ぺたぺた、ぺた。狭いキッチンに彼女の足音が響く。短すぎるパンツから伸びる脚はむくんでいて、一日の疲労を訴えていた。

「飲まないよ。」

 洗濯機に衣服を放り込んだリクは、ようやく目を合わせて会話をする気になったらしい。

「今は、飲まない。」

「それなのに、こんなに買ってきたわけ?」

「……休みの日の、朝から飲む酒は最高だから。」

 気まずそうに、こちらの様子を窺いながらの言葉だった。

俺は、食べることが大好きだ。そして、だらしないことはそんなに好きじゃない。先輩期間、友人期間を含めた、俺たちの付き合いはもう7年にはなる。俺のそんな性質を知っているはずのリクは、衝動的に酒を持ち込んできて試すようなことをしてきた。

「……明日の朝から、飲みたいってこと?」

「そう。ダメ?」

 どうでもよさそうな顔をしながらも、こちらの様子を窺っていることがわかる。ガシガシと音をさせながら、首を掻くから心配なほどに白い肌が乱暴に赤く染まっていく。

明日かぁ、とぼんやりと考える。金曜日の夜だ。いつもだったら、食材なんてまともにない。

でも、今日は、同僚たちに誘われなかったこともあって、家でちょっとした晩酌を楽しんだ。

リクは酒と一緒に炭水化物を楽しめるタイプだから、ごはんを焚いておいてもいいかもしれない。彼女が好きなイングリッシュマフィンはないけれど、バケットはある。彼女の好きなオープンサンドにしたら、きっと喜んでくれるだろう。

「……別に、ダメとは言ってないけど。いきなり訪ねてくるなんて、珍しいんじゃない?」

「カイさん、そんな言い方ってオツボネサマみたい。」

「どこがだよ」

 思わず吹き出すと、それすらも気に食わないというように眉を寄せる。女に不機嫌になられるのは別にどうでといいけれど、リクの不機嫌は面倒臭い。元気がないときは、なおさらに。

「もう、寝ます。」

 どう返事をするのがいいかと思案している間に、リクは俺の返事を諦めたように会話を切り上げる。さっさとベッドに潜り込むと、本格的に眠ろうとしているらしい、掛け布団をダンゴムシのように抱き込んで深いため息を、一つ吐いた。

 ダンゴムシに向かって、言葉を投げてみる。

「……リク、今日はなんで家に来たんだ?迷惑とかじゃ、ないけど。何もなかったから、びっくりした。」

「家より、カイさんの家のほうが近いからです。」

「いや、お前の家から職場20分だろ。家は30分なんだから、直線距離的にもお前は……」

「心的距離。」

「心的……?」

「心的」

 仕事で嫌なことでもあったのかもしれない。

‘’女性の社会進出”、なんていったところで、一筋縄ではいかない。思わず自分の職場にいる女性社員を思い浮かべて、唇を噛む。

SEなんて、男の人がまだ強いだろう。そんな中で働く彼女は、俺に見せないけれどしんどいことも多いのかもしれない。

「……あ、そういえばリク、シャワーも浴びないで布団に入りやがって」

「会社で浴びてきた!」

 叫ぶように答えたあとに、入ってきたもん……と消え入りそうな声は続く。

 ベッドのそばに座り込むと、音が聞こえたのか丸まった布団がビクッと動く。

「……明日、朝から酒飲みたい?」

「……飲みたい。」

「俺さ、別に朝から酒飲むことは反対じゃないんだよな。俺だって、たまに朝から缶ビール開けることあるし。知ってるか?ベランダでさ、太陽が昇ってくるところを見ながらビール飲むのって最高なの。昼まで寝てた日に、起き抜けの乾いた喉を濡らすのも一興なんだけどさ。」

 反応をしなくなったダンゴムシに話かけてみる。しばらくすると、鼻をすする音が聞こえて掠れた鼻声で返事がある。

「……毎日、仕事が多すぎる。必死で積み上げられた仕事をこなしていくの。最低、8時間。パソコンの画面をじぃっと見つめて指を必死で動かして。昼休みを取れないことも、当たり前みたいになってきてる。」

「うん」

「隣の席にね、サワちゃんって女の子がいたの。髪は肩くらいで、カイさんの元カノみたいな可愛い子。いつもオシャレしてて、私は仕事だし、誰かと会うわけじゃないしって腐って適当な格好してるのとは違って。」

「……うん。」

「メイクも、ばっちり。前日終電でも、髪は綺麗にアレンジしてて。そんなサワちゃん見て、言うんだよね。『“オンナノコ”はいいねぇ』って。男の人たちは、いっつも。」

 おじさんの話し方を真似したのだろう、ちょっと大げさな口ぶりはすごく皮肉っぽくて、それでも全く誇張しすぎているわけではないことが容易に想像がついた。

「サワちゃんはね、今日で仕事を辞めたの。遠恋してた彼氏と結婚するんだって。すごい清々しい顔して、おじさんの誉め言葉聞くのも飽きたのって。あぁ、サワちゃんは幸せになるんだなって。別に、私が幸せじゃないわけじゃないよ。カイさんに結婚してとか、そういうことを言いに来たわけじゃない。これは、本当。でも、なんだか置いて行かれた気分がして苦しくて。会わなきゃって。金曜だから、カイさん飲み会行ってるかもなぁって思ったし、メールすれば明日の朝来てくれることも分かってたけど我慢できなかった。わがままだって分かってたけど、残業の準備してたらダメだぁって。会わなきゃって。……やっぱり、わがままだね、ごめんね。」

 涙が入り混じって、最後のほうはぐじゅぐじゅと鼻水で聞き取りにくい。

それでも、彼女が俺のことを必要としていることと、自分では何も彼女を勇気づける言葉をかけることができないのだということがわかって喉の奥がぎゅっと締め付けられる。

 何も言えないのは、俺が何かを考えて生きているわけではないからだ。男女比、6:4という俺の職場は、女性が綺麗にしていることが当たり前だ。むしろ、すっぴんでクマが隠れていない人を見かけると、大人なのにねと上司は小さく笑う。彼女の職場とは真逆だ。

リクは“サワちゃん”に憧れていたのだろう。自分のペースを保つということは、思ったよりも難しい。大人になるまでに、俺たちはそのことを痛いほど身にしみている。それは、自分を許してくれる人がいるからこそできるのだ。だから、“大人”の俺は周りに合わせるということを当たり前のようにするし、自分のペースなどというものは無いものとしている、ときがある。

リクは、もろいところがある。でも、すぐに立ち直れる強さがある。大量に買い込んできた酒を横目で確認する。

「お酒はね、楽しいときに飲みたいの。そのほうが、ずっと美味しく感じられるから。」

 笑いながら、いつも彼女はそんな話をする。だから、こんなにたくさんの酒を買ってきたリクは、よっぽどなのだと思う。

「……明日は、朝からパーティだな。」

 つぶやいた言葉に答えるように、ずっと彼女の鼻水をすする音がなった。

*

「起きろー」

 ダンゴムシになっているリクに声をかけると、唸りながらもぞもぞと山が動く。

 ベッドを取られた俺は、客用布団を引っ張り出して一晩を過ごした。シングルベッドは二人で過ごす夜には向いていない。ましてや、彼女がダンゴムシになっているときには尚更だ。

床の冷気を感じながら眠ったら、寝起きもスムーズだった。深く眠れなかっただけとも言えるけれど。

 テーブルの上にお揃いのグラスと、作ったばかりのつまみを並べていく。キンキンに冷やしたグラスは、ビールを美味しく楽しむためには必須だ。これだけは絶対に外せない。

寝る前に簡単に仕込んでおいたキュウリと豆板醤の浅漬けに、作り置きしておいたミートソースを使ったポテトグラタン。卵をたっぷりと使ったオムレツは彼女の大好物だ。常備菜のマリネと、買い置きをしておいたオリーブとチーズにクラッカーを盛りつけたらなんだか豪勢な朝の宴会セットが出来上がった。

「……ビール、開けるぞ」

 リクの返事を待たずに、タブを引くとプシュッと小気味のいい音が狭い部屋に響く。それに反応したように、「酒!」と飛び起きた彼女の思わず苦笑する。

 オープンサンドを目の前に出すと、くわっと目を開くから現金な奴だなぁと笑いが込み上げてくる。

 お互いにグラスにビールを注ぎあうと、朝から酒を飲むという背徳感でグラスが輝いて見える。金色に光る飲み物は、しゅわしゅわと小さな音を立てて飲まれることを待ち遠しそうにするから、思わず喉が鳴る。

「……かんぱーい」

 何となく、小さな声でカチンとグラスを重ね合わせて、くいっと罪悪感と共に喉に流し込む。

 最高だ。面白いほどに喉を流れ込んでいくビールは、快感をもたらしてくれる。

「……元気になった?」

「……おかげさまで。」

 いたずらが見つかった子どものような顔をしながら、くいっとグラスを上げる彼女への愛しさが胸に募る。

「これから、もっと元気になれるよ」

「おつまみで?」

「それはそうだけど、違うことで。」

 そういうと、えー?と首を傾げて本当に楽しそうに笑う。ちょっとした、非現実。仕事があったら、絶対にできないこと。それを、俺たちは今二人でしている。

 そんな小さなことが、嬉しくて楽しい。人間の表情を作るのは、いつだってシンプルな感情だと思う。今の彼女は、無駄なものが含まれていない笑顔をしている。たぶん、大丈夫だ。

 元気がないときこそ、寝て、食べることが一番だと誰かも言っていた。それが出来ている彼女は、きっと元気になれる。

 ふと、昨夜のうちにダンゴムシを眺めながらネット通販で注文したスニーカーを思い浮かべる。

傷のついた汚れたスニーカーなんかを履くから、気分が落ち込むんだ。いつも通り、足元くらいカラフルにしておけばいい。桜の花のような、極端すぎないピンクのスニーカーがあと少しで届く。手にした彼女は、どんな顔をするだろう。

 シンプルに、嬉しそうな顔を見せてほしい。

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