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「命」を「使」って、生きる時間

雨の日は、文章が書きたくなる。
雨音を聴きながら、しとしと筆を走らせる時間を愛でる。書くことが心底好きだ。そんな感情は、雨の日が連れてきてくれるのかもしれない。何を考えるでもなく、何を感じるでもなく。それでも指はなめらかだ。

ただ生きている証を残したい。「文章を書く」ことに出会ったのは、ちょうど就活を終えたばかりの頃。当時はとにかく、自分の世界を書きたかった。胸の奥からえぐられるような生々しい傷を、溢れ出る愛や感情を。外の世界を流れる風に触れさせることが気持ちよかった。

けれどライターになってからは、他人の生きた証を残すことへの熱量が増した。

原稿に落としていく言葉は、他人の人生だ。自分の心を通って、他人の人生が外の世界を流れる風に触れる。ドラマであり、物語。何ひとつとして同じ作品はない。世界中どこを探しても、ない。その人の中でしか上映されていない映画のようなもので。その一部が垣間見える取材中は、息が詰まる。ワクワクしすぎて、興味深すぎて、ときに悲しくて、苦しくて。舞い上がってしまう。心の中はお祭り騒ぎ。仕事だけど、仕事なんだけど、仕事にできない、というか。頭ではわかっていても、ふわっとしてしまう一瞬がある。心をグッと掴まれる。世界が無音になる。

そうして終えた取材をもとに「生き方」を原稿に落とし込む作業は、正直怖い。取材中の興奮とは一転、身体が固まる。自分の力ではどうしようもない巨大な波に飲み込まれそうになる。人の想いを象ることへの責任。真っ白い自由が広がる絶望。「伝えたい」を「伝わる」ように、書かないと。負けないぞ、負けないぞ。おっかない、しかめっ面で。歯を食いしばって筆を進める。

そうして筆を下ろす瞬間は、かっと燃える。血が、熱くなる。引き込まれるように瞳孔が開き、何かを覚悟したようにやわらかく唇を結ぶ。心は緊張と興奮で、うるさいくらい静寂。ゆえに立つ、さざ波。

負けじと書き進めていくと、ふっと力が抜け、まるでその人に憑依したかのような感覚に陥る。指が滑らかに、強弱をつけて、リズミカルに。音楽を奏でる指揮者のような。でもタイピングする音は一定で、心だけが忙しい。細かな情報と感性が小刻みに。なんども押しては返す。

折れずに書き上げた原稿は、根を下ろし深い深いところまでわたしを連れて行ってくれる。誰もいない。静かな谷底のような場所。神聖で、冷たくて、静寂。それを感じた瞬間に、もうぐったりだ。アドレナリンが切れた。すべてを出し切った、と。全身全霊で挑んでいるのだと思い知らされる。ひとつの物語を生み出している感覚は、わたしにとって強烈で鮮烈な「生きている実感」なんだ。


「人の人生の記録を残し、誰かの記憶に刻むこと」


それが生きがいに見えるよ。そう言ってくれた友達がいた。ほーっと息を吐く。

「命」を「使」って、生きる時間。


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