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みんなで,分けましょう!

 私は東京生まれ,東京育ちである。
 それも大都会ど真ん中の,マンション暮らしであった。町内会なんていうのも(たぶん,記憶の限り)ないし,思春期を過ぎた頃には両親の事情で親戚付き合いもほとんど絶ってしまったものだから,「コミュニティの中で生きている」感覚はほぼゼロだったように思う。だからそんな私が今こうしてコミュニティの中で活動しているというのは,自分でも変な気がする時がある。だけどここへたどり着く道筋というのは確かにあったんだなぁと,先日新聞の取材を受けながらしみじみと感じた。

 まずだいたい私は東京から見知らぬ土地京都へやって来て,割と早々に「ヒトリではやっていかれん。」と白旗をあげたんだった。結婚当初は中京の街中マンション暮らしだったのだが,出産直前「地べたで生活したい。」とワガママを言って左京の貸家に引っ越しをした。友達もいない,双方の両親も遠方という状況の中で,マンション密室育児なんて恐怖だったのだろうと思う。そんなことは到底私にはできんと踏み,マンション暮らしよりはもうちょっとゆるやかなコミュニティがありそうな借家暮らしを選んだのだった。おっきいお腹を抱えての引っ越しは私自身もオットも大変だったんだと思うのだが(あんまり覚えていない),私はその当時の私に「good job!!」と言いたい。いやもちろんそのままマンション暮らしをしていたらどうなっていたかなんて分からないし,「どっちがいい・悪い」なんて話ではない。でも地べたへ移り住んでみたらご近所さんにも恵まれ,子どもはおじさま・おばさまたちにとても可愛がられた。近くの農園を借りているご近所さんたちと一緒に畑仕事をさせてもらっていたのも,いい思い出だ。京都特有の子どものお祭り「地蔵盆」にも参加させてもらって,近所の子どもさんたちと知り合う機会もできた。これらは,コミュニティの残っている地べたに引っ越したことそれ自体の恩恵だった。

 でも実は,本当の意味でその時期の私を支えてくれたコミュニティは別のところにあった。
だけれどもそれは,「ヒトリではやっていかれん。」と匙を投げなければきっと出あっていなかったであろうコミュニティだ。

 今は小学6年生になったムスメが幼稚園にあがる前,私とムスメは「パンダ園」という自主保育の場に週2回通っていた。ほんらいパンダ園は心臓病を持ちながら生活している子どもたちの共同保育の場なのだが,心臓病に限らず病気や障害とともに暮らす子どもたちも,そうではない子どもたちも受け入れて活動されている。なので顕在的な病気や障害のないムスメも,パンダ園に入園させてもらえた。しかしこんなにお世話になって,大好きでたまらないパンダ園なのだが,どうやってパンダ園のことを知ったのか,なんでパンダ園にたどり着けたのか,今となっては思いだせない。当時の日記をみてみたのだが,パンダ園との出会いについては何も書かれていなかった。少し前にパンダ園の先生が当時のことを振り返って,「お父さんがムスメちゃんをおんぶ紐で背負ってやってきて,パンダ園に申し込みしたいですって言った姿が忘れられない。」と仰って下さったのだが,私はまっったく思いだせなかった。うむむむむ・・・ひどい。でもまぁ「気づいたらパンダ園にいた」という,「導かれた」くらいの主体性のなさがきっと,パンダ園にたどりつけた要因の一つなのかもしれない。

 パンダ園での一日は,こんな感じである。午前中ゆっくりめの時間に集まって,お部屋の中やお庭で自由に遊ぶ。そのあと先生たちが「おへんじ,はい」の歌とともに出欠をとって下さって,手遊びや歌を楽しむ。続いて季節ごとに様々な遊びを用意してもらっているのでみんなで楽しんだあとには,お昼ごはん。ごはんはボランティアの方たちが,毎回手づくりで用意して下さっている。ご飯を食べて少しゆっくりしたあとには絵本の読み聞かせ,さようならの歌など。そしておやつ時前には岐路につく,という日常だった。

 うーん,こうして書いていても,パンダ園の素敵っぷりが伝わるような気が1ミリもしないぞ・・・あの淡々とした,飄々としたへんじんのオット氏でさえ「パンダ園はパラダイスだ。」と常に呟くような場所なのであるが,言語化の壁が高い。あえてそこに挑むのであるが。

 とにかく先生たちが,子どもたちをほんとうに大事にしてくれる。子どもたちひとりひとりに向けるまなざしのあたたかさは言うまでもないのだが,なんていうんだろう,子どもを信じる力が半端ないというか。たとえばオット氏が思い出したエピソードの一つに,こんなことがあった。先生たちが出欠をとるときに,なかなかお返事「はーい」が言えずにもじもじしていたムスメ。でも先生は「こころの中で,はーいって言ってくれたねー。先生には聞こえてるよー。」と言ってくれたそうである。そうしていつの間にか,ムスメは「はーい!」とニコニコお返事するようになっていた。保育の先生として,ごく普通の,当たり前の声かけなのかどうか,私には分からない。もしこれをまとめてしまえば,「子どもの,本当はこうしたい,という気持ちを代弁してあげること」なんて味もそっけもない表現にしかならない気がするのだけれども,何だかそういうテクニック的なことではなくて,子どもの声を聞こうとすること,今のその表現にオッケーを出すこと,でも信じて待つこと,みたいな構えがデフォルトであるとでも言ったらいいのだろうか。なんなら「ほんとうに」声が聞こえてるんじゃないかっていうくらい。そして常にそういう状態なので,挙げたような例は日常茶飯事。だから私はその場にいながら,実のところ何度も何度も繰り返し衝撃を受けていたのである。母親だけれども,今まで生きてきた中で2歳児(だけではなく,言ってみれば子どもっていう存在全般)と関わりあう機会なんてなかった。どう接していいのか,どうしてあげたらいいのか,経験値がなさすぎたのである。そんな中で先生たちの振る舞いから,「あっそんなふうに言ってあげるといいんだ。」とか「そんなふうに構えているといいんだな。」ということを学んでいった。でもそれはいちいち「正解」とか「マニュアル」として取り込んでいったのではなくって,子どもを信じて大事にする,その仕方みたいなものがまるごとインストールされちゃった,みたいな感じに近い。

 そう,だから先生たちの「子どもを信じて大事にする」振る舞いは私にも感染したし,パンダ園に集うほかのお母さんがたやボランティアのみなさんにも共通してみられるものだった。厳密に言ったら,もしかしたらその振る舞いの起源は先生がたではないのかもしれない。「はじまり」があるのかないのかさえ分からないし,もうすでにパンダ園で脈々と受け継がれている文化のようなものになっているというふうに考えることもできる。だからだろう,10年ぶりくらいに訪れたパンダ園で,私は当時と変わらないあたたかさと寛ぎを感じることができた。

 弱虫の私にとって,子育ては楽しいものであったと同時に,大変で辛く思うことでもあり続けた。「子育ては,内も外も大自然なんだから」という記事にも書いたが,夜泣きと断乳後の体調不良が重なって「3日でいいから入院したい」としくしく泣いてオットに訴えた危機を乗り越えた(サバイブした)あとも,小さな不穏状態を繰り返していた。イヤイヤ期のムスメに「これでもか!」と冷たくした自分が許せなくって,「Oh~すべての罪は,Oh~みんなで,分けましょう!みんなで,分けましょう!(sha ra ra ra♪)」と歌うブルーハーツに慰められて号泣するなんてことも,はい,お恥ずかしながらありましたです。・・・なんて余裕なフリしてるけど,今でもコレを思いだすと,リアル涙が込み上げてくるっての。

 でも,なんだろう。
 帰る場所ができたっていうか。

 子どもを大事にするってことが常日頃思うようにできなくって,自己嫌悪に陥って,ミニ危機に直面するなんてことを繰り返してても,みんなで大事にできる場所があるんだ,っていう安心感みたいなもの。そこに行けば,私も(みんなに支えられて)大事にすることができる。しばらくパンダ園はそうやって物理的に帰る場所であったわけだが,卒園してからは「大事にできていた記憶」みたいなもの,「大事にできていた自分」に会いに行ける場所,みたいなものになっていったように思う。だから実際に訪れることはなかったけれども,常に心の中にパンダ園があって,いまだに子育てを支えてもらっている。

 そんな場所,そんなコミュニティーを物理的に,心的(記憶の中)に持つことができたというのは,私にとって非常に幸福なことだった。たぶん,今まではあんまり意識していなかったけれども,梟文庫をしようと思ったその底のほうには,パンダ園に通じている道があると思う。ヒトリじゃできないことは,みんなで分かち持っていけたらいい。

 だからしつこく,うたっていきたいよね。

 子育ては,
 「みんなで,分けましょう!みんなで,分けましょう!(sha ra ra ra・・・♪)

↑・・・ブルーハーツの「シャララ」のメロディがすぐ出てくる人が,どれだけいるか分かんないけれども・・・

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