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軒先フリマ『すかがわ軒先市』で大切なものを見つめ直す

モノを介したやり取りって、不思議だなと思う。
その代表例が「買い物」だと思うが、ほぼ毎日行っているであろうこの行為を「やり取り」と感じている人は、いったいどれほど居るだろうか。

先週末、とある取り組みに参加させてもらった。
『すかがわ軒先市』と名付けられたその取り組みは、須賀川市の個人店が文字通り“軒先”に好きなものを並べ、お気軽に売ってみましょうというものだ。簡単に言ってしまうと「フリーマーケット」や「蚤の市」といった感じだろう。ただこの取り組みには、そのお気軽な響き以上の何かとても大切なことが含まれているのではないかと、参加を終えた今感じている。

昔、29歳~30歳くらいの頃、デンマークに留学していたことがある。留学と言っても半年程度の短いものだったが、それでも自分にとっての未踏の地・北欧で暮らしたことには、大きな気づきと発見があった。
その発見のひとつが「セカンドハンドショップ」である。日本のリサイクルショップとほぼ同義で、つまりは誰かが使わなくなった(けどまだ使える)ものを売る店のことである。
私の暮らしていたデンマーク北部の田舎町にも小さなセカンドハンドショップが一軒あって、地元のおじいさんやおばあさんが店番をしていた。運営形態はいたってシンプルで、1)近隣住民が使わなくなった物を店前に置く/持ち込む。2)店員がピックアップする。3)店頭に並べられる。以上である。店舗によって手順は異なるのかもしれないが、基本的にはこのような流れだろうと思う。私が見る限りモノはすべて寄付で、いわゆる“買取”のような制度はなかったことが、日本のリサイクルショップとの一番の違いかもしれない。つまりは「ビジネス」というよりも「みんなの善意」を基盤に成り立っているということだ。これはもしかすると、デンマークの主要セカンドハンドショップの運営母体が赤十字であることも関係しているかもしれない。

「モノのやり取り」からビジネス性を引っこ抜いた時、そこに残るのは何だろうか。現代日本で育った私たちにとって、そのことを想像するのは容易ではない。見渡す限り、世の中のほとんどすべてのやり取りには”お金”が介在しているからだ。
そういった意味で、今回の『すかがわ軒先市』では純粋な「モノのやり取り」をちょっぴり体感できたような気がしている。軒先に並べるモノは基本的にはなんでも良い。が、そのためにわざわざ仕入れをして~というよりも、すでに手元にあって、でも自分ではもう使わない、けど誰かに使ってもらえたら嬉しい、が選定の基準となっている。並べるモノを品定めしながら、「ああ、これはあの時のあのやつだ~」とか「そう言えばこれ使ってなかったな~」という思い出の欠片も一緒に呼び起されるので、お客さんに説明するときにも自然とストーリーが語れる。
もちろん値段をつけているので商売ではあるのだけど、今回参加した店舗のみなさんの動機は決して「いっちょこれで儲けてやろう」ではなかったはずだ。それよりも「モノを介して起こる」いつもの商売とは違った何かを、ほのかに期待していたのではないかと思う。

guesthouse Nafshaの軒先に主に並べたのは、一冊20円の古本と一つ10円の雑貨だった。破格すぎるので「本当に良いんですか…?」とお客さんに心配されたほどだが、終わってみるとこれで良かったと感じている。夫には「これ買った時いくらだったの?それを基に値付けしたら?」的なことを言われたが、そうなってしまっては軒先市の醍醐味が失われてしまう気もする。「ビジネス」になってしまうからだ。仕入れ値は売値の何割で~、何年たっているから減価償却が済んでいて~、などと考えはじめたら、せっかくの「純粋にモノと向き合う機会」が余計な色に染まってしまうのではないだろうか。ここでやりたいのはビジネスではなく、コミュニケーションなのだから。

お金という一強の価値基準に染めつくされない、「モノを介したやり取り」の塗り残された余白のような部分を、軒先市は私たちに気づかせてくれている。須賀川中、あるいは福島県中の軒先にそれぞれの“モノ”が並ぶ光景を見てみたいと、ひとり壮大な夢に想いを馳せた週末となった。

guesthouse Nafsha
Misato


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