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闘うべきか、受け入れるべきか。

先日、とある人から手紙が届いた。宿泊予約のためのお手紙ではなく、その人が書きたい想いが綴られた、本当に純粋なお手紙だった。
タイミングもあり、その内容がとても深く心にささったので、今日はその手紙を受けて私が感じたことを、ここに書かせてもらおうと思う。

「妥協しない」の先にあるもの

Nafshaを開業するまでの道のりは、闘いだった。素人がやる初めてのリノベーション、初めての開業、初めての宿泊業…。故郷である福島県とは言え、上京してから12年以上経った私たち夫婦の感覚は、思った以上に地元のそれとはズレてしまっていた。とは言え黙って相手の言う通りにしていては、自分たちの思い描くゴールに辿り着くことはできない。しかし一方でどんなに伝えても(あるいはこちらが伝えたと思っていても)、相手は想定の100分の一程度にしか理解してくれないことが多々ある。どこで折り合いをつけるべきか・つけざるべきかという点において、何度も何度も頭を悩ませながら、なんとかここまで進んできた。

これまでも折に触れて書いてきたことではあるが、私がNafshaという空間つくるにあたって絶対的に大切にしてきたのが「妥協したらあかん」という精神だ。

これは美術家でもある友人が私にくれた言葉で、いくら自分の中で人知れない葛藤や苦労があったとしても、初めて見た人はそんなことは分からない。だからなんでも第一印象、first impression が肝心で、その二度とない一瞬のためにつくり手は絶対に妥協してはならない、という意味だ(と解釈している)。予算や実現可能性との折り合いをつけながらも、与えられた条件下で一切の妥協をせず、諦めない。その姿勢は時に周囲との”摩擦”を生じさせるし、何より「自分との内なる闘い」という逃げることのできない葛藤の渦中に私を追い込んだ。

これも以前noteに書いたことではあるが、東京に住んでいる頃、私はアーツ千代田3331の現代アート講座に聴講生として通っていたことがある。施設長でもある現代美術家の中村政人氏がアートを定義する際に使っていた「切実と純粋と逸脱」という表現が忘れられず、ゲストハウスづくりの最中にもふと思い出す瞬間があった。授業中、思い切って自分のゲストハウス構想について相談した際に、「きみのプロジェクトには切実性と純粋性がある。あとは逸脱するだけだね」というようなことを言われ、彼の「逸脱」の言葉の意味するところをずっと考えていたのだが、今回、思いがけずいただいたお手紙の中にその答えへの道筋を見た気がしている。

「闘う」と「受け入れる」の狭間でもがく

今回いただいたお手紙の中には「与格」と「主格」という言葉が書かれていた。手紙によると、政治学者の中島岳志氏の著書『思いがけず利他』の中に出てくる表現で、流れに身を任せて宿ったものを表現することを「与格」、私が生み出すことを「主格」と言うのだと、文中に簡単な説明書きが添えてあった。思えば私は、この「与格的なもの」と「主格的なもの」の狭間で、ずっともがいてきたような気がする。

商いのことを考えるとき、私はいつでも「主格」で考える。自分の頭の中を形に表し、それを社会と接続させて「事業」として運営していく。ビジネスなので世の中のお金の流れを鑑みなければならず、“世間の言葉”と“自分の中にあるコトバ”をチューニングさせ、なんとかアウトプットしてきた。自分だけの世界で表現するのでれば「調整」や「折衷」、それに伴う「闘い」も生じないが、他者と付き合わなければならないビジネスの世界では、「私はこう思う」「私たちの理想はここです」を伝えなければ、進むべき道を容易に失う。そんな時、私の話す言葉は男性的で、断定的で、勇ましく、迷いがない。
一方で「与格的な態度」とは、ゆったりとした気分のときに現れる。気持ちのいい朝に田んぼ道を散歩するとき、穏やかな黄昏時にベランダでたたずんだり、朝一番で目覚めた時の、まっさらな一日がふわりと始まっていくのを感じた時など、自分だけの時間にやってくることが多い。そんな時にはよく言葉が“ぽっ”と言葉が浮かんできて、頭上から私の中に降りてくる。私はもはや自分で考えるのでも書くのでもなく、ただ目の前に(あるいは頭上に)浮かんできた”言葉のもと”をつかみとり、自分を通して表すのだ。それらの多くは「詩的な言葉」で表出する。

すごく昔に読んだので確かではないが、建築家のアントニオ・ガウディはサグラダファミリアを設計する際、「私はつくるのではない。ただ見つけるだけだ」と言ったそうだ。あの有機的で奇天烈極まりなく見える建築も、実は自然の法則に則って設計されているということだ。つまりガウディも「神がお創りなった自然という完璧な摂理」に忠実に従い、あの大作を計画したのである。まさに「与格的態度」と言えるのではないだろうか。

「主格」と「与格」を行き来して見える景色

この「私が〇〇したい」という主格の自分と、「ただそこにある」を受け取る与格の自分を行き来しながら、そのあまりのギャップに自分でも疲弊してしまうことがよくある(これもHSS型HSPの特徴なのだろうか…)。しかしここで思い出されるのが、先に述べた中村氏の「逸脱」というキーワードだ。

自分の心地よさの中だけでつくっていくのであれば、葛藤も闘いも生じない。「逸脱」とはつまり、何か越えがたい壁が目の前にあり、それを乗り越えた時に表れる状態を示しているのであって、そのためには私の場合、はじめから「すっかり委ねる」という与格的態度では、そこには到達できないことになる。やはり逸脱のためには、「主格的態度」で困難を乗り越えながら、”自分の”理想を実現していくということが必要なのだろう。「話が伝わらない」「思うように進まない」などの周囲との調整や自分との闘いを経ながらも、形にしていく。
ただ一方で、たとえ主格的態度によって理想通りに仕上げられたとしても、それだけでは十分ではないとも感じている。「妥協せずに」やり切ったのちに、“すっと手放す”ということの先にあるものこそが「本当の逸脱」なのではないだろうか…。やり切ったからこそ手放せる、手を広げて全身を委ねられる。その絶対的な受容の態度が自然と生じた時はじめて、つくったものがつくり手の手を離れ、自ら歩み始めるのではないだろうか。

このループを繰り返すことで、私たちの人生は木が年輪を重ねるように、あるいはバームクウヘンが厚みを増していくように、どんどんと太く、重厚で濃密なものになっていくのかもしれない。その道のりは決して楽ではない。戦いや葛藤を経ずして、先に進むことはできないからである。「どこが勝負どころだろう…」「主格と与格のバランスがつかめない…」と迷うことも、もちろんある。その答えは人それぞれ違うだろうが、ただひとつ言えるのは、「大丈夫。私たちには闘いも安らぎも共に用意してされていて、それらを味わい尽くすのが人生なのだから。悪いことが続いたからといって絶望することはなく、むしろその苦しみをごまかさずに、きちんと味わい尽くした先には、思いもよらない安らぎが待ってくれているのだから」ということである。

私もまだまだ道半ば。これからも悩んでもがいて、楽しみ尽くして生きていこう。

2023/4/21
新月から次の日に。なおちゃんへ。
guesthouse Nafsha owner
Misato

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