日本神話と比較神話学 第十二回 民間信仰の神々の体系 竈神三柱、井戸神三柱、厠神三柱、道祖神三柱
1 はじめに
建築学者・民俗学者であり、「考現学」(都市風俗の観察・記述・理論家)を提唱した今和次郎は論文「住居の変遷」の中で、日本の民家の「土間・板の間・畳の間」という構造が、それぞれ「原始時代・公家時代・武家時代」の住居の様式を伝承しており、さらにそこで祀られている神々も、各時代の信仰を伝承しているという。
行燈(あんどん)が照らす畳の間(座敷の間)には祖先を祀る仏壇、囲炉裏が備え付けられている板の間(床の間)には村の氏神や崇敬神社が祀られた神棚、竈の据えられた土間には竈神・井戸神・厩神など固有名を持たない、精霊に近い土着の神々の祭祀が祀られている。(住居の変遷は火の変遷でもある)
土間(地面)=原始時代=竈(かまど)の火=土着の神々
板の間(床の間)=公家時代=囲炉裏の火=神棚(神社の神々)
畳の間(座敷)=武家時代=行燈の火=仏壇(祖先)
(今の時代分類は国学者・伊達千広「大勢三転考」の、古代氏族の時代=骨(かばね)の時代、律令貴族の時代=職(つかさ)の時代、武家の時代=名(みょう)の時代という三つの時代区分と重なる)
今の議論を援用して、民俗学者・歴史学者の高取正男は、家庭内の信仰の二重性 ― 表向きの課長の祭祀を受ける公的な神々(神棚・仏壇)と内向きの主婦によってひそかに祀られる私的な神々(土着の神々) ― を論じた。
高取は土間の神々、納戸神など精霊的神の信仰を議論する。これらの古層の神々は座敷わらしのような妖怪的存在としても民間信仰に現れる一方、中世の貴族社会でも賢所(かしこどころ)で信仰されるすくうの神(『栄華物語』。守宮神・宿神・式神とも)などの後ろ戸の神々(服部幸雄『宿神論』。表向きの神社の神々を援助する、裏向きの土着の神々)として出現しているという。
付け加えると納戸神として奥の間に祀られる恵比寿・大黒天などは固有名で呼ばれる神々であるが、土間の神々に近い性質を有している。
住居の構造が信仰の変遷の跡を遺しているという今の指摘は大変興味深い。おそらく日本以外でも同様の考察が当てはまる事例があるだろう。
小論では、家庭内で祀られる土着の神々を考察する。
ただし、この家の神々は民俗学者が考えるような雑多な、精霊的信仰の残存ではない。精霊が存在するこの土地、この家といった個物の霊だとすれば、神々は土地があること・家があることそれ自体の神格化である。
以下では、神々によって分節された世界像、すなわち神話的・多神教的世界観における家の神々(竈神・井戸神・厠神・道祖神)を考察する。
2 竈神三柱
三柱の竈神という信仰については他で論じた。東アジアに広まる民話などでは、竈神は三人の男女(女とその没落した前夫、富裕な現夫)が死後神となったもので、沖縄やベトナムでは竈神は三柱とされる。同じく竈と縁が深い女を主人公としたヨーロッパの民話「シンデレラ」でも、同様に栄える家・衰える家の対立が主題となっている。これらは本来は日本神話の海幸山幸の争いに起源をもつ大洪水の神話であったと思われる。海幸山幸は女神コノハナサクヤヒメ別名カムアタカシツヒメ(神・熱・炊つ・姫=炊事の女神)の三人の息子であり、三柱の竈の火の神(ミホススミの神=三火進神。民間信仰では三宝荒神)であった。争いの結果、起きた大洪水で、長男の海幸は没落し、末弟の山幸の子孫から王権が生まれた。
3 井戸神三柱、アパム・ナパート
日本の民間信仰では井戸の神は祟るとされる。これは本来は、インド=ヨーロッパ語族の古い信仰に見られる神格アパム・ナパート(水の子)または「水中の火」の神話に由来する。
アパム・ナパートはインド神話・イラン神話に共通する水に関わる神格である。インド神話では水中における火の神アグニであるともされる。ローマ神話の海神ネプトゥーヌス、ケルト神話のネフタンとも共通する神格であるという。
井戸の神・水の神・泉の神は「三」という数とかかわりが深い。
ギリシア神話のポセイドンは三叉の矛で大地を突いて泉を湧かせた。
ケルト神話のネフタンは井戸と泉の神である。ネフタンの妻ボアンは傲慢さからネフタンの秘密の井戸に誤った対応をとった。すると井戸から三度水が噴出し彼女の両腿・右腕・片目を打った。
イラン神話のアパム・ナパートは水と王権に関わる。ゾロアスター教の経典に『アヴェスタ』に残るイラン神話ではアパム・ナパートは以下のように現れる。
その後、アーリヤ人(イラン人)と敵対するツーラーン人の悪漢フランラシヤンは義者ザラスシュトラの光輪を手に入れようとウォルカシャ海を三度探したが、光輪は逃げ去り、そのたびに湖や川ができた。
水中(海底・湖底)でアパム・ナパートが守護する光輪とは「水中の火」である。
このように「水中の火」は「三」という数と、王権の正当性に関わり、(あるいは「虚偽」から逃げようとする)洪水を引き起こし、三度にわたって川や湖を生む。
日本神話において「水中の火」の神話に相当するのは宗像三女神の誕生であろう。
宗像三女神(タゴリヒメ・タギツヒメ・イチキシマヒメ)は水(海・航海)に関わる三柱の女神である。名の「タギリ・タギツ」などは水が湧く・沸く様子(「煮えたぎる」の「たぎる」)と関わるといわれる。また宗像大社および各地の宗像神社で祀られる他、王権の守護神である八幡神社の総本社・宇佐八幡宮のヒメオオカミしても祀られている。つまり王権にも関わっている。
比較すると、「水中の火」は王権に関わり、虚偽にふれると洪水を起こし三つの川や湖を生む。また泉・水中の神であるアパム・ナパートと不即不離である。一方、宗像三女神は水と王権に関わる。剣と、神聖な井戸の水によって生まれた。スサノオは誓約において「自分の潔白が証明された」と主張したが、その後暴れまわっているように無意識の内心には虚偽があったと思われる。その虚偽の主張の際にこの三柱の水の女神は生まれた。
宗像三女神と深くかかわる宇佐八幡宮に関しては王権に関わる虚偽を告発した「宇佐八幡宮神託事件」が重要であろう。
またアパム・ナパートは『アヴェスタ』では全ての人間(男子)の創造者とされるが、宗像三女神と一緒に生まれた天照大神の五男神は王権=人間の祖先である。
宗像三女神と「水中の火」の、この虚偽を憎む性格は、これらの神格が神明審判に関わることを示していると思われる。
古代において行われた神明審判(神に判断を仰ぐ裁判)に盟神探湯(くかたち)がある。神に潔白を誓わせたものに、煮えたぎる湯に手を入れさせ、火傷をしなければ潔白、火傷をすれば虚偽を主張しているとされたという。古代においてもその濫用はすでに、暴虐と考えられていたようである。
神話(「水中の火」)と比較して考えるにおそらく、盟神探湯の本来の形は、潔白の誓約において虚偽の主張をしたものが水に手を入れると水が沸き立ち、火傷をするというものだったのではないだろうか。(「タギリヒメ」「タギツヒメ」の名は虚、偽にふれると水が沸き立つ=「煮えタギル」というところからきているのだろう)
上記のように、井戸神が祟るという俗信は、本来は虚偽をなすものが王権にふれようとすると王権を守護する三柱の泉の女神が祟りをなすという、宗像三女神に関わる古代の信仰の残存であると思われる。井戸神は宗像三女神に比定されるだろう。
4 厠神三柱
厠神はその名の通り便所を守る神であるが、その他にも出産に関わり、便所をきれいにしておくときれいな子供が生まれるなどの俗信がある。他に便所に唾を吐くと厠神を怒らせるとも言う。中国の厠神は紫姑神といい便所で正妻に殺された妾の女性で、吉凶を占う神であるともいう。厠神が占いの神・託宣の神であった痕跡は民話「三枚のお札」にも見られる。山姥(山の女怪・人食い)の家に泊まることになった小僧(未熟な僧侶)は師の和尚(住職)からもらった三枚のお札の力で逃走に成功する。そのうち一枚目のお札は厠の中から小僧の声を山姥に返し、小僧が逃げる隙を作った。異伝では三枚のお札は厠神から授かったという。このように厠神は便所から言葉を返す(託宣する)と考えられていた。
これらの厠神の性質は日本神話の黄泉の国の神話に見られる説話と共通している。
厠神が守護する厠(便所)も、イザナミが支配することとなった黄泉の国も、ともに穢れた場所である。厠神は唾を吐くことに怒るが、イザナミはイザナギとの言い争いの際に唾を吐かれた。厠神に関わる俗信として便所をきれいにするときれいな子供が生まれるとされるが、イザナギが黄泉の国のケガレをはらうと三柱の貴い神々が生まれた。中国の厠神は占い(託宣)を行うが、黄泉の国の神・ククリヒメ(またはヨモツチモリ)はイザナミの言葉をイザナギに伝えた。
以上のように厠神に関する俗信は、黄泉の国の伝承に細かく符合している。では具体的には日本神話のいかなる神格が厠神に比定されるべきなのか。一般的にはイザナミが黄泉の国に下りる前に、その排泄物から生まれた神々が厠神とされているようである。以下はその神話である。
小論では以上の神話のカナヤマヒメ・ハニヤスヒメ・ミズハノメの三柱を民間信仰における厠神に比定したい。(とりあえずは女神のみとする。日本書紀の伝承でも男神が省かれることがある)これらの神々はイザナミの黄泉下りの直前に生まれており、おそらく黄泉の国と関係が深い。
鎮火祭の祝詞によるとイザナミは悪しき子(カグツチ)を地上に残したことを憂いて、さらに地上に戻り、カグツチを鎮めるため水神・ヒサゴ・カワナ・ハニヤマヒメの四柱を生み残したという。日本書紀・一書(五段・第二)ではカグツチとハニヤマヒメ(ハニヤスヒメ)の子がワクムスヒだとされる。ここから考えると三柱の内、ハニヤスヒメとミズハノメは地上に戻されているので、黄泉平坂に現れたククリヒメには残されたカナヤマヒメと同定されるだろう。カナヤマヒメはタグリ(吐しゃ物)から生まれたがタクリ・ククリとも音が類似している。
厠神三柱は天から降る水(上水)である井戸神(宗像三女神)に対応する、地下へと下る水(下水)を循環させる神々である。
5 道祖神三柱
道祖神は近世では男女一対の像として祀られることが多いようである。イザナギ・イザナミにあてられることもあるが、しばしばサルタヒコ・アメノウズメとされている。他で論じたように比較神話学的にはサルタヒコは天孫の先導であり、境界の神・風神であり、その対偶であるアメノウズメも曙の女神に比定される。道祖神とされる神には外から共同体に侵入する悪霊を遮る神格(クナドの神・フナドの神、ローマ神話のヤヌスなどの門の神)と、行旅を守護する神格(ギリシア神話のヘルメス、インド神話のプーシャンなど)があるが、サルタヒコ・アメノウズメは後者の旅客神にあたる。
ただ一方で、道祖神には子供の守護神という性質がある。民間信仰ではその側面は地蔵信仰へと流れている。
上記の伝承では地蔵と対置される天邪鬼は日本神話ではアメノサグメに相当する。アメノサグメはアメノワカヒコ(高天原の神々より地上の平定を命じられた)の従神で、アメノワカヒコをそそのかして、高天原の使者を射殺させた。
さて、民間伝承では産女(うぶめ)という子供を妊娠したまま死んだ女性が死後変じる女怪が伝えられている。道を通りかかった人に赤ん坊を預けるという。佐賀や熊本ではウグメといわれる。
産女は本来(仏教伝来以前)は、ウグメといわれる子供を守護する神霊であったのではないだろうか。すなわちウグメ(ウク・メ。メは神霊の意)とは豊受大神=トヨウカノメのこと(俗称・民間での呼び名)ではなかろうか。ウグメという名はサグメに対応する。豊受大神は天孫降臨の段に名前がである、おそらく天孫に随伴する神である。アメノサグメがアメノワカヒコに随伴するように、豊受大神(ウグメ)は天孫に随伴する神格ということになる。
ヨーロッパには妖精の取り換え子(チェンジリング)という伝承がある。自分の子どもが知らぬ間に妖精の子どもと入れ替えられてしまうことがあるという。また、バビロニアの女怪リリートゥは子どもを食べる。中国の女怪・姑獲鳥は子どもをさらう。子どもを害する怪異は世界中に見られる。天邪鬼(サグメ)が子どもを泣かせないという伝承もその一つと思われる。(妖精の「取り換え子」も天邪鬼の「子どもを泣かせない」も、悪霊の子どもへの憑依を示していると考えられる。アメノワカヒコはサグメにそそのかされ高天原と対立する)
子どもをめぐる地蔵と天邪鬼の対立は、本来はウグメ(豊受大神)とサグメ(アメノサグメ)の神話的な対立だったのだろう。
道祖神の神話的な原型は天孫ニニギノミコトの地上への降臨を助ける、サルタヒコ・アメノウズメ・豊受大神の三柱の神格だったのだろう。後世にはその意義が忘れられ、近世においては男女一対の道祖神像と、子どもの守護者としての地蔵として別個の信仰として観念されるようになったと推察される。
6 おわりに
神道神学は日本神話の神々に元素神を見出そうとしてきた。中世神道では五行思想の徳目に神々をあてはめ、近世の国学者・平田篤胤は地水火風の四元素の神々を論じた。(風神シナツヒコ、火神カグツチ、土神ハニヤスヒメ、水神ミズハノメ)
本論もまたそのような神道神学の議論の流れを汲んでいる。上記で論じた民間信仰の信仰対象に比定される四つ組の神々すなわち竈神・井戸神・厠神・道祖神とは、まさに、おのおの火の神・水の神・土の神・風の神という元素神たちである。
参考文献
工事中