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キャリアは「あきらめたらそこで試合終了」でも「あきらめも肝心」

国際協力に携わる仕事がしたいと考え始めたのは、大学のころ。

初めての挑戦は、「青年海外協力隊」(現:JICA海外協力隊)
学生の自分が応募できそうなこととして、まず初めに思いついたのがこれだった。

大学3年の秋に応募して2次選考まで進むも、不合格。

ここで、協力隊を「あきらめる」ことにした。

募集は翌年からも毎年あるわけだし、あっさりしすぎだと思われるかもしれないが、なぜあきらめたかというと、不合格理由が「健康」だったから。

健康が自分の取り柄の一つだと思っていたぐらいだから、自分自身が一番驚いた。
「アレルギー値」だけが、基準を遥かにオーバーしていた。
確かにアレルギー体質ではあるけれど、花粉症と犬アレルギーぐらいしか自覚はなく、重大な症状を起こしたこともなかった。

自分で色々調べてみると、「アレルギー値」を低くする努力は非常に難しい、というかほぼ不可能であることがわかった。
つまり、JICAが協力隊に求める健康基準を満たすことはこの先も不可能。

とても悔しくて、やるせなかったけど、それなら仕方がないときっぱりと「あきらめた」。

大学卒業後は、一旦、小学校教員になった。

「一旦」と書いたのも、この時点で定年まで勤めるつもりは全くなかった。
本当は、どこでも良いから途上国へ行ってみたかったし、色々情報収集はしていたけれど、両親を説得しきれる行き先は見つからなかった。

両親はとても愛情深く心配性だし、2人姉妹の長女の私をやすやすと途上国へ送り出してはくれなかった。JICAぐらい名の知れた団体ならまだしも。
両親の気持ちは後から考えればとてもよくわかる。

ここで、2度目の「あきらめ」

でも、小学校教育の仕事は大変ながらもやりがいがあって、周囲にも恵まれ本当に楽しかった。

そして新たな「挑戦」

大学院で国際協力を学ぶことにした。
いきなり途上国へ飛び出すよりは、両親を説得しやすかったし、当時は国際機関で働くことも夢見ていたので、その必須条件として、修士号を取得したかった。
イギリスの大学院へ行くことになり、両親も心配しながらも見送ってくれた。

少しだけ両親の話になるが、両親は娘の私がやることをいつも応援してくれる。部活選びや進路選び、無理に引き留めたことは一度もない。だからいつでも途上国に行けた。でもだからこそ、ちゃんと説得して、納得してもらって温かく送り出してほしいという気持ちがいつもあったように思う。

大学院卒業後は、念願のNGO海外事務所で働くことになった。
インターンだったので、1年間の契約。
あっという間に1年間が終わり、引き続き働くという選択肢も与えてもらった。

けれど私は帰国した。
結婚が決まっていたから。
大切な人と出会い、日本に戻って一緒に生活することに決めていた。

また少し「あきらめた」

当時は「キャリアはまた戻れる」けれど
「これほど結婚したいと思える人にはもう出会えないかもしれない」
という思いがあった。
だから一旦キャリアは捨てた。

でも後になって気づく。
「キャリアはまた戻れる」かもしれないけど、簡単ではない。

日本に戻り、地元に戻り、出産して、育児。
地元で国際協力の仕事を見つけるのは困難だった。
というかほぼゼロだった。

まずは子育て、家族のことを大事にしたかったので、それを第一にしたこれからの人生設計を考え始めていた。
とりあえずは、教員免許を生かして近くの小学校で非常勤講師ができたのがありがたかった。

自分にとってとても条件が良く、通勤時間短い、時間に融通がきく、長期休みがある、給料はぼちぼち、そして何より居心地の良い職場だった。
非常勤で働きながらも、常にアンテナは張っていたように思う。

「長男が10歳ぐらいまではここで働こう!」

と決意した。
それは同時に、「それまでには、転職する!」
という自分自身への決意でもあった。

結局、それよりだいぶ早く、
長男7歳で転職が決定。
国際協力NGOで働くことが決まった。

これまでの自分のキャリアを振り返ってみると、
20代前半で想像していたキャリアプランとは全然違う。バリバリ国際協力人生とはほど遠い。

あきらめたこともたくさんあった。

でも、一方をあきらめたときに、もう一方の選択をしたから今があるともいえる。

結婚生活も育児も、両親も大事にしてこられたと思う。
そしてこれからも一番大切にしたいと思っている。

だけど、国際協力の夢を完全にあきらめたことは一度もなかった。

だからこそ今!
もう40歳手前だけど!!
やっと!!!!

道が開けた!

さぁここから!
ワクワクが止まらない!



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