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半世紀前の帰国子女物語

帰国子女ってなに?って言われたころの話

今では帰国子女と言えばそれなりに一目置かれたりして一種のステータスのようにも捉えられているけれど、私が帰国子女となった45年ほど前は本当に認知度が低く、帰国後の就学にも困ったものだった。

帰国した時期が中3の3学期ということが最大のネックだったのかもしれない。姉が高校を卒業するタイミングでの帰国となったため、親は姉の進学の方が心配なようだった。でも意外にすんなりと短大英文科への進学が決まり、義務教育期間だった私の方がなかなか受け入れてくれる学校がなかった。親は高校受験をしなくて済むように中高一貫校の私学を探していたが、住んでいた辺りの私学は「帰国子女ですか?日本語に問題がある方は前例がないので受け入れていません。」とまではっきりとは言わなかったにしろ、暗にそれを匂わせる言い方で編入試験すら受けさせてもらえなかった。

父親の海外赴任に伴い、家族も追っかけ引っ越すことになったのは小学校3年生の夏。引っ越し先はカナダ・ケベック州モントリオール。折しもモントリオール万博が終わった翌年だった。(因みに先の東京オリンピックの時は香港に住んでいて、モントリオールオリンピック開催時は帰国していた…)当時のモントリオールは日本人も少なく、日本人学校は全日制はもとより補習校さえもなかった。週一回土曜日に地域の学校を借りて行われた補習校ができたのは中学生になった時だった。赴任したての子は日本語で困ることはないのは当たり前だが5年もブランクがあった私にはハードルが高かった。それまでは現地校に通い英語のみの生活。日本語は親としか話さない毎日だった。そんな訳でとても変な日本語を喋ったり書いたりしていた。例えば英語で「ピアノを弾く」は ”play the piano" と言うのはご存知の通りだが、私は「○○ちゃんピアノ遊べるんだって!」と言ってみたり、読み書きもかなり怪しくなっていて、漢字はおろかカタカナさえも覚束ない。地理の時間、白地図を渡されて世界の国々の首都を書き込むワークをした時だった。書き込んだ後、隣の子とそのプリントを交換して答え合わせをした。アメリカ合衆国の首都はワシントン。正解!なのに私の答えをチェックしていた子がクスクス笑い出した。「ウシントンって…」そう、一生懸命カタカナを思い出しながら書いた答えの「ワ」の字が「ウ」になっていた。今思えば笑える話なのだがその時の私は必死だった。

ということで、日本語が変な帰国子女は厄介者だったのだろう。のん気者の母もさすがに焦っていた。インターネットのない時代、人づてに神戸辺りは受け入れ校が多いことを聞きつけ、中高一貫校でしかも大学も短大もある女子校を探し当てた。編入試験を受けることができた!試験結果を伝える面談で校長先生から一学年下りて中2の3学期での編入なら受け入れられると告げられた。やはり国語に問題があったのだろう。この際一学年下りるくらい何てことない!ここから頑張れば勉強は何とかなるだろうと考え、この学校に入学する運びとなった。

家から電車とバスを乗り継ぎ約2時間かけて通学する毎日が始まった。当時は朝の情報番組などなく、NHKの天気予報が終わって『明るい農村』が始まる頃に家を出ていた。授業が終わって急いで帰っても18時30分頃になるので部活は入らなかった。変な日本語を話す私だったけど外国帰りということで興味を持ってくれて、友だちもたくさん出来た楽しい中高生活だった。

親はそのまま上の大学か短大に進学するものと思っていたが、勉強も少しずつ追いついて来たこともあり、外部受験を決心。カナダで第一外国語として学んでいたフランス語をまた学びたいと思い、外国語大学や総合大学を受験し、その中でキャンパスがとても美しい関西学院大学の文学部フランス文学科に進学した。入ってみて知ったが、帰国子女枠というのがあって面接と外国語の試験だけで入学した人もいた。やはり帰国のタイミングは大事だ。羨ましかったけど、すべては自分のためにはなっているので良しとする!

今は昔…モントリオールでの小学校生活

父を追っかけて小学3年生の夏休みに赴任地のカナダ・ケベック州モントリオールに母と姉の3人で引っ越した。入学手続きの際校長先生から3年生と4年生、どちらに編入したいか聞かれた。私は9月生まれで9月から新学期が始まる当地では早生まれになるらしい。私は自分の英語力のことなど微塵も考えず、ただ少しでも早く大きくなれるならと4年生への編入を申し出た。その希望は了承され4年生のクラスに入った。

日本からの新入生ということでクラスメイトはみんな興味深々。世話好きな人はどの国にもいるようで、何も分かっていない私に熱心に話しかけてくれたり、学校のことをいろいろ教えてくれたりした。友だちは意外とすぐにできた。

カナダは移民の多い国。国際色豊かだ。ヨーロッパ、アフリカ北部、中東から来ていた子もいた。私は英語がほぼ喋れなかったので時間割が国語(英語)とフランス語の時は1年生のクラスに行き授業を受けた。小学1年生だから幼稚園から上がったばかりの子たちと一緒に勉強していたことになる。国語の時間は教科書の音読をした。”Run, Spot, run! See how they run. Bow-wow! Bow-wow!" などと書かれた教科書を読む。内容の意味が分からなかった。”Bow-wow”って何?これが犬の鳴き声だと知ったのは大分後のことだった。数学の時間に行くこともあった。1年生の計算問題なのですぐに書き終えプリントを提出。先生がチェックしているのを見ながら「もう出来たの?全問正解なの?天才!」と教室内がざわついて面白かった。

ある日、教室で先生から前に呼ばれた。"What is your religion?"(あなたの宗教は何?)と言ってクラス名簿の空欄を指差した。「宗教って…?」日ごろ意識したことがなかっただけに何て答えていいか分からなかった。家に帰って父親に聞いた。「それは ”Buddhist"って答えたらいいんだよ。」そうか、仏教か!生徒の宗教によって生活習慣が異なるため担任の先生は把握しておく必要があったようだ。断食の時期があったり、食べ物に厳しい決まり事があるユダヤ教の家庭が多かったように思う。

学校は教育委員会が統括していて、当時はカトリック以外の宗教の生徒を受け入れていたProtestant Schoolboard of Greater Montreal (PSBGM)の管轄だったEdinburgh Schoolに通っていた。子どもの足で自宅から歩いて15分程のところにあった2階建ての小ぢんまりした校舎。日本とは比べ物にならないくらい小規模でのどかだった。1クラス20人程で1学年2クラス程度。校庭はアスファルト部分と芝生部分に分かれていて広かった。アスファルト部分にはボール遊びができる線が引かれていて、芝生の部分はただの広場で遊具はブランコくらいだったように思う。1階に幼稚園が併設されていて、その教室の近くには遊具のある遊び場があったように記憶しているが、小学生には開放されてはいなかった。休み時間の遊びと言えば Double Dutch(ダブルダッチ), Frisbee(フリスビー), Hopscotch(ケンパ), Champ(ネット検索したらFour Squareとも言うらしい) だった。今なら日本にもある遊びだが、半世紀前の日本にはなかった。フリスビーを見て、「ゴミ箱の蓋を投げて遊んでる!」と思い、2本の縄跳びを交互に回すダブルダッチは入るタイミングが難しくて縄が1本の時だけ参加。チャンプは得意だった。

Champ遊び方の図

お昼休みは余程の事情がない限り全員自宅に戻って食事をしていた。ランチボックスを持って来る子は極少数。親が留守の家庭では食卓に食事を置いて出掛けていた。

日本の学校で言ういわゆる保護者が教室の後ろで授業の様子を見る「参観日」は特になかった。音楽発表会は仕事終わりの親が観覧しやすい夜に開催。生徒も放課後一旦自宅に帰って晩御飯を済ませてから再び登校する感じだった。その音楽発表会の参加は出るのも見るのも自由だった。

リコーダーの音楽発表会 私は後列手前

高学年になってくると Project の提出が多くなる。テーマを与えられ、それに沿った内容を自分で考えレポートにまとめ上げる。美術の授業なら遠近法や色彩など。歴史なら歴史上の出来事や人物について。インターネットのない時代、このような Project 作成のため百科事典は不可欠で、図書館によく行った。友だちの家にはたいがい百科事典があったので、家に遊びに行っては一緒に課題に取り組んだりもした。最終的には家にあった方が便利ということで親に World Book という百科事典をおねだりして買ってもらった。

モントリオールが位置するケベック州の教育制度はカナダの他の地域と少し違う。当時の公教育は小学校は7年生まであり、8年生から11年生までがHigh School、その後CEGEPという進学・職業準備校に2年(職業訓練の場合は3年)行ってから大学か就職かに進む。ケベック州の大学は3年間らしく合計すれば他の州と同じ就学年数になる。近年は少し違っている模様…興味のある方は調べてみて!

今は昔…子ども時代の海外暮らし

モントリオールの小学校に転入してまもなく友だちができた。ロビンは英語が喋れない私に親切にいろいろ教えてくれた。家も近かったので放課後や休日もよく一緒に遊んだ。お互いの家を行き来して、ロウとクレヨンを溶かして紙コップでロウソク作りをしたり、空き箱を部屋に見立てて人形の家を作ったり、マクラメをしたり…と手作りすることが好きな二人だった。Peace And Love の頭文字を取って "PAL" (仲間)というグループ名をつけて結束を高めてみたり。

 ある日、母がおやつにリンゴ、キウィフルーツやプラムなどの果物を皮をむいて出してくれた。ロビンは目を丸くして ”What's this?" と聞いたので母はビックリ!欧米では大抵丸のまま食べるので、むいた状態の果物を見たことがなかったみたいだった。

ガールスカウトのちびっこグループのBrowniesに入っていたロビンに誘われて入団し、いろいろなアクティビティに参加できて楽しかった。クラリネットを習うことになったロビンの最初のレッスンについて行ったこともあった。横に座ってレッスンの様子を見学していた。レッスンの途中で先生が私の方を見て "Are you sisters?" と尋ねた。えっ!?私たちが姉妹な訳ないでしょ、肌の色も髪の色も瞳の色も全く違うのに!でも先生は大真面目。”We are just friends!"と言ったら先生は軽く頷いた。欧米では普通に途上国の子どもを養子として迎え一緒に暮らす人も少なくないからそう思ったんだろう。小学生の私には大きな衝撃だった。私が途上国から来た娘に見えたのか…と思ったと同時にカナダではそれは特別なことではなく普通のことなのだと思い、人々のおおらかさを感じた。

冬場の外遊びといえば雪遊びやスケート。住んでいたマンションの前の空き地が冬になるとスケートリンクに変わった。市の職員らしき人が何人か来てリンクを作ってくれていた。だから子ども達はみんなマイスケート靴を持っていて、代わる代わる滑った。男の子たちはキャッチボールをするような感じでホッケーのスティックとパックを持参してパスをして遊んでいた。空き地のスケートリンクなので手すりなどない。小さな椅子を家から持って来ている子もいたがスケート初心者の私はロビンの腕にしがみついていた。カナダっ子のロビンは後ろ向きにも滑れて上手だった。雪国ならではの冬の光景だった。

モントリオールが位置するカナダ・ケベック州はカナダの中でもフランスの影響を大きく受けている地域で唯一フランス語が公用語になっている州である。小学校は7年生まであったが、6年生が終わった時点でフランス語で授業を行う学校に行くことを選ぶことができた。ロビンはそちらに行くことを選んだので7年生以降合う機会が少なくなっていった。

私が校庭で撮った7年生のクラス卒業写真。かなり自由な感じ!

今は昔…カナディアンから見たジャパン

半世紀程前、私がモントリオールに移り住んで何ヶ月か過ぎた頃の話。少しずつクラスメイトと意思の疎通を図ることができるようになってきた頃、思いの外みんな日本に興味を持っていたことが分かった。代わる代わる私に寄ってきてはいろいろな質問をする。

「日本人って紙と木でできた家に住んでるんでしょ?」まぁ確かに日本の家は木造が多いし、襖や障子には紙が貼られている。でも彼らの口ぶりから思うにきっと彼らの言う「紙と木で出来た家」のイメージはどちらかと言うと三匹の子豚が作る藁の家に近いもののような気がした。割り箸のような柱に薄っぺらい紙を四方に貼り付けたもので強い風が吹けば飛んでしまうような家だ。日本家屋の写真を見せて違いを分かってもらった。

「日本人の男の人は女性の首を一番セクシーって感じるんでしょ?」と一人が言えば「えー胸とかお尻じゃないの?なんで首?」と別の子が言った。そうか ”Neck" としか言いようがないのだろうか、うなじのことだと思うんだけど…言い方が分からないので「首の後ろ側」と説明しても「?」という顔をする。まだ小学生だし、無理もない。

「ミサコの足が小さいのは足を大きくしないために包帯でぐるぐる巻きにしていたからでしょ?」え?家に帰って母に聞くと、それはどうやら昔の中国の風習の「纏足」のことだったようだ。後日その子に「それは中国の昔の風習で日本にはそんなのないよ。私の足が小さいのは生まれつき小さいからだよ」と説明したように思う。とかく日本と中国は同じ東洋の国ということでよく混同される。もっと言うと韓国ともよく間違えられる。言葉も文化も違うこの三つの国だけれど当時の西洋ではひとくくりにされがちだった。

北アメリカでの当時の日本人のイメージとしてよく漫画やアニメで描かれていたのは七三に分けた黒髪に黒縁のメガネ、出っ歯で首からカメラをぶら下げている姿だった。こうした成人した男性像しか描かれなかったのは当時の日本は高度成長期で日本からやってくるのはビジネスマンばかりだったからだろう。

今では空前の和食ブームで「刺身」と言えばどんな料理か大抵の外国人は分かる。だが50年ほど前は全くの無名の料理。「日本人って生の魚を食べるんでしょ?」これも大きな誤解。生は生だけど骨を取って切り身にして食べているイメージなどない。北海道の木彫りのクマが鮭を加えている置物のように日本人は丸のままの魚を調理をしないで食べている姿を想像していた。

ちなみに、カナダで生活していた7年間、刺身を全く食べなかったかというとそうでもない。もちろんスーパーで売っている訳はない。父は人を家に招いて母の手料理を振る舞うことがあり、そんな時は父は決まって数日前に私たち家族を魚の卸市場に連れて行った。そこで卸業者に冷凍室に案内してもらい、適当な大きさの生の鮭や鮪を買って帰った。母は家の台所でそれらをさばいて刺身にしていた。子どもながらに凄い母だと思った。でも今時の寿司屋や鮮魚売り場でやっている鮪の解体ショーのような大きな物ではないので誤解なきよう!

当時モントリオールの若者に人気のラジオ局 CKGM。DJがリスナーのリクエストに応えてヒットソングを流す。”Sukiyaki”と題して坂本九の『上を向いて歩こう』が流れて来た時は感動した。当時の北米で ”Sashimi” は無名だったが ”Sukiyaki” は人気があったようだ。

今は昔… High School Days

7年生で小学校を卒業し、8年生からハイスクールへと進学した時、姉は最高学年の11年生だった。姉はミス ハイスクールに選ばれるほどの美人で人気者だった。チアリーディング部に所属していて、アメリカンフットボール部に彼がいて、アメリカの学園ドラマのヒロインのような日々を送っていた。青春を謳歌している姉とは対照的に私はというと、部員が全員女子の体操部に入ったのだった。鉄棒ができるということが先生の目に留まり、勧められるままの入部。日本では普通に鉄棒は誰でもしていた時代、逆上がりやだるま回りを30回連続でできた子は沢山いた。でもカナダの学校の校庭に鉄棒などなく、できる子も少なかった。地区大会があって段違い平行棒の選手として出場したこともあったが、日本の小学生レベルだったので、参加することに意義があるという程度の結果だった。

モントリオールのハイスクールは毎年記念アルバムが作成されていた

ハイスクールにはカウンセリングルームが二つもあり、カウンセラーも常駐していた。空いていればいつでもカウンセリングを受けられるようだった(利用していないのではっきりとは分からない)。現地でテレビドラマを観ていると(だいたいは米国で制作されたもの)、働き盛りの主人公が会社帰りに psyciatrist (精神科医) を定期的に訪問し、仕事や家庭でのいろいろを吐き出して(日本のテレビドラマの場合だと会社帰りに居酒屋などで一杯飲みながら同僚や店の親父さんに管を巻いくシーンになるのだろうか…)すっきりして帰宅するという場面を良く見かけたが、学校でもこのようなケアがあることを知ってなんだか不思議な気持ちだった。生徒の中にもメンタル面で悩んでいる人がいるのか…と。でも欧米に遅れること20年、日本の教育現場でも生徒の心のケアが重要視されるようになりスクールカウンセラーを学校に置くようになった。まだ日本の場合、一人のカウンセラーが何校も掛け持ちしていて常駐ではないような。

ハイスクールを卒業した姉はCEGEPに進学した。CEGEPはケベック州独自の教育制度でハイスクールを11年生で卒業後2年通う進学・就職準備校で、進学する場合大学の2年に編入するので合計年数は他の州と同じになるようになっている。私は8年生が終わって9年生からは私学の女子高に転校することになった。通っていた公立のハイスクールでの風紀の乱れやドラッグの噂などが親の耳にも入り、心配した親は私を転校させたのだった。ある日、新しい学校を見学に行くと父に言われ、オープンスクール的なものだと思い気軽に参加したのだが、気が付けば入学試験を受けていた。結果は合格だったので新年度から通うことになった。

モントリオールの公教育は全て無償だったので、あえて私学に通う人は恵まれた家庭環境にいる人たちだった。そこで一番の仲良くなったのはティーナだった。彼女はとても穏やかで優しく勉強もよくできた。奉仕の精神もとても旺盛で、放課後学校の近くの病院でCandy Striper(つけているエプロンがピンクと白の縦縞模様でCandy Caneというステッキ型の飴のように見えることからそう命名)として入院患者の話し相手や小児病棟の子どもたちに絵本の読み聞かせなどをするボランティア活動をしていた。私も誘われたが、当時の私はとにかく早く家に帰りたかったので学校の終わりのチャイムが鳴ると同時に校舎を飛び出しバス停に走った。学校が居心地悪かったとか嫌いだったとかではなく、公立のハイスクールよりも家から遠く街中にあり、通学もそれまでの倍は時間がかかったことから家路を急いだ。余りの速さに友だちからSpeedy Gonzales と呼ばれていた。ちなみにティーナの家はバスとメトロ(地下鉄)を乗り継がなければならずもっと遠かったのだが…

ティーナと筆者。制服はジャンパースカートとカッターシャツ!

通っていた女子校では学校主催で男子校との交流会が行われた。各学年別に実施されていたのか、その学年限定で実施されていたのかは記憶が定かではないが、チャーターバスに乗って男子校の男子がやって来たのだった。学校の地下ホールでみんなで椅子取りゲームのようなアクティビティをしたり、スキー遠足にも一緒に行った。学校が出会いの場を提供しているそんなイベントのようだった。日本では考えられないことなのでこれにはびっくりした!

10年生になってしばらくして、父から帰国の辞令が出たと言われた。その前の年に赴任後初めて家族で日本に一時帰国したところだった。5年ぶりの日本で親戚や小学校の友だちと久しぶりに再会し、食べたかったいろいろなものを食べ、やっぱり日本っていいなぁと里心が付き始めていた頃だった。私はその父の知らせにワクワク!それとは対照的に彼氏とのお付き合いが続いていた姉はムッツリ。思春期の娘のことが気になっていた父は、日本の学校への編入手続きを早めにした方が良いという理由で母と姉と私の三人だけ一足先に帰国させたのだった。そして編入手続きが終わった頃、父にはニューヨークへの転勤辞令が!私たち姉妹を日本に残し、母は父の元へ行ってしまったのだった。世間一般的には父親だけがニューヨークへ単身赴任するものだと思うのだが、なぜか我が家の場合両親がセット赴任し、娘たちは日本で留守番ということになった。この事態に関して長い間疑問が頭の片隅にあったのだが、何年か前に母にその真相を聞く機会があったので聞いてみた。そうしたところ、学校の編入手続きも終わっていたしアメリカに永住する訳でもないから将来のことを考えて日本の学校に行っておいた方が良いと思ったとのこと。あと、あちらではパーティーなどは夫婦で出席するからとか。結局姉のカナダの彼氏との遠距離恋愛は悲恋に終わり、親の思う壺となった。

帰国子女って...まとめ

これまでのストーリーは自身の体験を基に書いてきたのだけれど、帰国子女と一口にいっても様々で、どの国から帰国したかや帰国時期によっても帰国後の本人の気持ちや考え方、周囲の反応や対応が異なっているような話も耳にする。

例えば我が夫も帰国子女。大学時代に付き合っていた頃、夫に言われたことがある。「君は良いよね、先進国から帰って来たからみんなに興味持ってもらえて。こっちは台湾から帰って来たからメチャからかわれたよ。」そう、彼は台湾に家族で3年ほど住んでいた。義父が商社勤めをしていたのでその辺は我が家と似通っている。夫は小学校高学年から中学にかけての滞在で、帰国後も同じ住まいに戻ったので旧友と再会でき、比較的スムーズに学校に馴染めた。ところが2つ年下の義妹は小学校低学年で日本を離れ高学年で帰国したため、親友と呼べるような友達作りができていないまま日本を離れたため帰国後馴染むのに苦労したようだった。まず、住んでいた国が台湾だったことから「台湾バナナ」と面白おかしく呼ばれたり、心無いことをいろいろ言われたようだった。子ども同士は遠慮がない。義妹は元来明るい人なので、気にしないふりをして一緒に笑って過ごしたようだけれど、心中穏やかではなかったことは容易に想像できる。

グローバル化やインバウンド景気などと言われる昨今の日本ではあるけれど、島国日本はまだまだ単一民族の意識があり、外国や外国人に対する偏見も少なからずあるようにも思える。イチロー氏が引退会見で言った言葉でとても印象に残っているものがある。

「アメリカに来て、メジャーリーグに来て、外国人になったこと、アメリカでは僕は外国人ですから。このことは、外国人になったことで人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね。この体験というのは、本を読んだり、情報を取ることができたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。」

この言葉のように、ずっと日本に住んでいて日本の生活や日本人の持つ感覚が当たり前と思って生きていると気づかないであろう「人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり」することを子ども時代に体験できたことは、その時は逆境に思えても今となってはラッキーだったと思える。

英語に”put oneself in someone's shoes"という表現がある。直訳すると「誰かの靴の中に入る」ということになるが、つまりそれは「誰か他の人の立場に立って考える」といること。一人ひとりが想像力を働かせて他の人の立場に立って思いやることができたら、何となくギスギスした世の中がより心地よくなるような気がする。

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