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「そういう人がいてもいいよね」は多様性を受け入れたことになるのか|SICK! Festival report (3)

 → アートで誰かを救えるなら、その瞬間を目撃したい|SICK! Festival report (1)
 → マイノリティはどこにいる?|SICK! Festival Report (2)

SICK! Festival」のコンセプトはその名の通り、「病理」「“病む”とは一体どういうことなんだろう」だった。

「SICK! Festival」に興味があったのは、演劇という言葉を使ったパフォーマンス(もしくはダンス)で、言葉にならない思い・病を、どこまで表現しきれるのか、汲みとれるのかに興味があったからだ。


心を病む、体を病む、精神を病む、病気になる、憂鬱になる……。

“病む(やむ)”という動詞から連想されるのは、そんな言葉や、陰鬱とした雰囲気。

では、その“病む”原因は、一体どこから来ているのだろう。

そして、その“病”は誰のものなのだろう。
どうしたら、その“病”は治るのだろう。

もし治らないのだとしたら、どうやってその“病”と向き合っていけばいいのだろう。

わたしにとっては“病”にあたるものでも、誰かにとってはプラスに働くものなのかもしれない。

いや、そもそも“病”は、マイナス要素しか含んでいないものなのだろうか?

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「SICK! Festival」で強烈に印象に残っている2つの演目がある。

アイルランドのTHEATERclubという女性5人組のユニットによる「The game」と、スイス在住のアーティスト、ダニエル・ヘルマンによる「TRAUMBOY」

この2つのテーマは、どちらも「売春」だった。

私の権利は私のためのもの。「The game」

「The game」では、ふたりの女性と5人の一般人男性が登場する。

女性ふたりとは、THEATERclubのメンバーであるGemma Collins(ジェマ・コリンズ)とLauren Larkin(ローレン・ラーキン)。それぞれ青とピンクの衣装を着ていて、メイクがラブドールのように見えた。

プラスチックのようにべったり塗られたファンデーションと輪郭を大きく見せるコンタクト、少しだけ微笑みをたたえた小さな口元、テカテカした化学繊維でできたウィッグ。ろう人形のようでもあった。

彼女たちはマイクパフォーマンスとともに「これから起きることは、すでに誰かに起きたこと。もしかしたら私たちに起きたかもしれなかったこと、これから起きるかもしれないこと」という風に前置きをして5人の男性を舞台上に招き入れる。

彼らは公募で選ばれた、一般人男性。それぞれ作品に参加したい理由(全部は聞き取れなかったけれど、血縁関係に売春を経験した人がいる、友人に売春を行った人がいる、という理由をあげている人がいた)を述べ、また紙を見ながらパフォーマンスのルール説明をする。

「The game」では、売春を経験した女性のエピソードを、ジェマ、ローレンが交代で男性とペアになって再現する。そのエピソードがオムニバス形式で演じられ、男性は指示通りに行動することで、何を、どう感じるかをコメントしていくというスタイルのパフォーマンスだった。

例えば。

「彼は会社員。既婚者。家族が誰もいない時間に私に電話をかけてきた。『今から来れるか?』と彼は聞いた。私は彼の住所を聞いてタクシーで乗り付け、彼の家へ入って行った。彼は、お酒を一口飲み、ベッドに腰掛けると私のつま先から頭上までを舐めるように見てから言った。『いくら?』と」。(記憶を頼りにしているのでそのままではないけれど)

こういったエピソードを、ジェマかローレンがナレーションを交代でつとめながら再現をしていく。

彼らは彼女たちの指示通りに動かなければならない。気分が悪くなったり、従いたくなかったりしても、最後まで遂行しなければならない。

彼女たちの腰に手を回したり、キスをしたり、時にはセックスそのものをしているんじゃないかと思わせるような所作もある(実際にはしていないけれど)。

正直、見ていてものすごくハラハラした。

彼女たち自身が「犯される」ことを舞台上で直接的に表現するんじゃないかって。さすがにそれはなかったけれど、なんだか観客自身が試されているようでもあった。

男性の性欲によって女性の権利が迫害されていく。身体に関わる健康の保障も何もないまま、女性たちは生きていくために、もしくは空っぽになってしまった穴を埋めるように自分に価値を見出す方法の一つとして、売春を繰り返す。
少なくとも「The Game」で登場するエピソードでは、女性たちは積極的に自分の身体を売っているわけではなかった。

「売春をしている女性はみんな傷ついている」などとヒステリックに苛立ち憤ることは簡単だ。けれど、人の体というのは、そんな簡単に「私のもの」「お前のもの」と分離できるものではない。「私の体だから私の自由に使って良いじゃない」という意見もある。でも、そもそも“私の体”は、“私”だけでは得られない。誰かと作用しあって、初めて“私の体”になる。

でも、その作用の仕方が、暴力になることもあれば、愛や快楽になることもある。

この仕事を誇りに思う。「TRUMABOY」

「TRUMABOY」では、この「私の体は私のために」という価値観の強さと脆さを感じさせた。

「TRUMABOY」を演じるダニエルは、セックスワーカーとして働いている。主に既婚者の男性がクライアントで、何人かの専属の相手を務めているという。

ダニエルはゲイだけれど、クライアントたちは、必ずしもゲイというわけではない。奥さんや子供がいる男性もいる。中には「妻を紹介させてくれ」とダニエルに申し出た人もいるという。

ダニエルは、自分の仕事を誇りに思う、と話していた。

「体を売るという職業は、偏見を招きやすい。でも僕は誇りを持っているし家族も応援してくれている。僕はセックスが好きだし、クライアントも僕と時間を過ごすことで幸せな気持ちになれるなら、仕事の甲斐がある。体調管理にはお金がかかるけど、この仕事をしているから僕はアーティストとして、この仕事への誇りを表現することもできる」。(また記憶を頼りにしているのでそのままではないけれど)

穏やかな表情で話すダニエルを見ていると、わたしは一体どうしたらいいの、という気持ちになってきた。

純粋な気持ちで仕事をする彼と、売春で苦しむ女性たちの姿。

どちらに、わたしは。

それぞれの演目は1時間ほどだったのだけれど、1日のうちに20分ほどの休憩を挟んで立て続けに観たこの2つの作品は、一つずつのインパクトもしかり、この作品を同日に上演するという組み合わせそのものにも大きなショックを受けた。

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わたしは基本的に、どんな意思も本人が自ら望むならばその気持ちを尊重したいと思っている。

それが例え売春という名前を当てられる行為であっても、当人が「これがやりたい!(やらなくちゃ、ではない)」と本気で思うなら、一生懸命打ち込めばいいと思うし、倫理的に、身体的に傷つけられない限りはいいのではないかと、思っている。

でも、「そういう人がいてもいいよね」という姿勢で終わることは、多様性を受け入れたことになるのだろうか。

なぜその人はその選択をするのか、どういう思考、嗜好があってその選択をするのか。そこまで考えて、それでも「あなたの選択を支持します」と思えたら、初めて受け入れたことになるのかな。

あるがままを受け入れるということは、なんでもかんでも良しとすることじゃないのかもしれない。

だから、売春で身も心もボロボロになる女性たちと、自分なりに体を売る商売に誇りを持つ男性とを目の前にして、何を肯定すればいいのか、どうすればいいか、分からなくなってしまった。

それは、イギリスという国の中にいても感じたことで。

イギリスには、いろいろな国籍のひと、いろいろな見た目のひとが住んでいる。ヨーロッパでは、それはどこへ行ってもあんまり珍しくない光景。

イギリスのマンチェスターという大都市も、アラビア語の店がずらりと軒を連ね、ヒシャブをかぶった女性たちが楽しげにおしゃべりしながら歩いている地域があった。

その光景を見ると「あれ、ここって中東だっけ」と思ったほどだ。

いくら移民を受け入れてきた歴史のあるイギリスにだって、わたしのようなよそ者には見えてこない、根強い差別は、絶対にある。

実際、たくさんの移民を受け入れている国には、各国の人々が多く住む集落や区画が必ず存在する。

日本でさえ、何県の何市には何人が多いとか、都内でも〇〇人街なんて呼ばれ方をして、そこに多くの移民たちが暮らしている。

それはまったく悪いことではない。

ある意味、異文化が溶け合っている、一つの形だと思う。

でも、マンチェスターに3週間滞在して、なんとなくぼんやり残った違和感がある。

「そういう人(移民)がいてもいいよね」というセリフを建前に、〇〇人区画から出たことがない人、もしくは足を踏み入れたことがない人も、大勢いるのではないか、という疑問。

共存しているようで、実は相手のことを何も知らないという状態が、知らない間に広がっているんじゃないか、という、違和感。

マンチェスターのカレーマイルと呼ばれる大通りから少し入った住宅街に滞在していたわたしは、イスラム教徒の人々が多く暮らす下町を何度も往来しながら、ぼんやりとそんなことを感じたのです。

旅をして、短期間であってもいろいろな風に吹かれ、言葉を浴び、呑み、土地が脈打つ時間の流れに身を任せてみる。

そうすると、汚いものも苦しいものもすばらしいものも見えてくる。

五感から貯蓄された世界の色々は、それぞれの地域と国の名前でわたしの中でしっかり血肉になっていくけれど、それを拡張して理解しようとすると、真っ先に壁にぶち当たる。

「理解し合う」ということの、途方もない難しさに、愕然としてしまうのだ。

知れば知るほど「わたしとの違い」だけでなく「あの国との違い」「あの文化との違い」が浮き彫りになってくる。そんな時に「わたしはあの国のこれが嫌い」とか「あの国の習慣は理解できない」という声を聞くと、悲しい気持ちと、納得する気持ちが交互に波のように押し寄せる。

例えば「お箸で食べ物を食べるなんて面倒臭いし、食べづらいし意味わかんない」という意見があったとする。

そうすると「うん、あなたは素早く一気にたっぷり食べるのが好きだから、お箸はわい雑だと感じるだろう」と、目の前の“あなた”の違和感を、飲み込むことはできる。

でも、わたしは“あなた”が感じる違和感に、心底共感することができない。違和感を覚えるあなたを理解することはできても、あなたの違和感そのものに同調することはできない。なぜならお箸で食事をするのが体に染み付いているし、好きだから。

「どうしてそんなこと言うの。お箸にはお箸の良さがあるの。習慣を否定しないで」と悲しくなる。

そして、こういった齟齬が続くと、だんだん苦しくなってきてしまう。

「あなたがそれを嫌い(受け付けない)と言うことは理解できるけれど、あなたがそれを嫌う理由は、わたしには理解できない」という出来事が重なると、「多様性を受け入れよう」なんて、やすやすと口にできなくなってくる。

わたしがお箸ユーザーびいきになる義務なんてない。

お箸ならまだしも、これが宗教だとか歴史に絡んでくると、そういったことについてわたしが理解できていることなんて氷山の一角の一角の一角くらいだ。

つまり、全く何も分かっていないかもしれない。

それでも、目の前で起きたこと、出会った人は、わたしにとって真実だから。信じている。信じたい。

***

何かがおかしい。
道理がかなわない。
筋が通らない。
分かってもらえない。

相手に対して募るのは、「どうして分かってくれないの」という憤り。その憤りが、心をささくれ立たせて牙を剥かせる。

多様であることは、もう言わずもがななこと。生きていれば、相互に影響を受けざるを得ないことは自明。

でも、なぜだか自分の足だけで立っている気がしてしまう。その想像力の欠如が“病”をもたらしているのだとしたら……?

わたし自身、“頑固”という名の病に長いこと脅かされているわけだけれど、このまま頑固でい続けるとこの固い頭の中だけで過保護に育てられた世界に侵食され、精神ごと食い殺されるかもしれない、と本気で恐ろしくなった。

思い込みと、想像力の欠如という“病”が引き起こす、偏見と、正義。

それらは音もなく近づいてくる。そして、静かにわたしたちを侵食する。

このままでは、偏見と正義のゾンビだらけだ。

じゃあ、この病んでしまった世界で、わたしはどうやって生きていこう?

世界は老衰している。くたびれている。

今の、生活のいろいろを支えている些細なこと、使っているもの、食べているもの、出会う人、動ける距離、これらは数十年前に比べて途方もなく早く的確に補給されるようになった。

くたびれた世界を生きる人間だけ、元気ではいられない。でも、これから生まれてくる命が、新しい世界をつくる。

わたしたちはたまたま宗教戦争や明治維新の時代に生まれなかっただけで、これから数年間の間にもしかしたら似たようなことが起きるかもしれない。

きっと、命の新陳代謝の最後の段階の頃に、わたしたちはたまたまこうして生きているだけだ。

いつか世界は終わる。生き物だから。なまものだから。

いつか、が、ここ数年、数十年の間に訪れるかもしれない。

それなら、わたしたちはこの“病”を治すことより、どうやって付き合っていくかを考えたほうがいいのかもしれない。

歴史は繰り返す。何度でも。もはやこれは変えられない。生きている以上、変わらないでいることはできない。

でも、どう変わっていくかは変えられるかもしれない。そして、わたしの、誰かの“病”が「変化の仕方」におけるヒントをくれるかもしれない。

「そんな人がいてもいいよね」というパンドラの箱に隠され無視された、感情、出来事、道理に恐る恐るでも、触れたい。

不治の“病”を理解したい。

だって、あなたが眠れない夜に心の奥で言葉にならず叫んでいることが、この世界に暮らす人々が抱える病そのものかもしれないから。

「そういう人」というジャンルや志向で区別するのではなく、「そういう人がいてもいいよね」という宙に浮いた顔の見えない誰かじゃなく、「あなたは、ここにいてもいいんだよ」とたった一人に言えたなら、それはわたし以外のカラフルで多様な“あなた”を受け入れたことに、なるかしら。

そうだといいな。

そんな“あなた”が少しずつ、身近に増えていったら、いい。

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