“死ぬのはいつも他人”だけれど/劇団コルモッキル『哀れ、兵士』
観劇後、ショックのあまり客席から立てないということを数回経験したことがあるのだけれど、『哀れ、兵士』もそのひとつ。
正論で人は救えない。
希望もない。
夢もない。
あるのはただ理不尽な現実と「死にたくない」という気持ちだけ。
『哀れ、兵士』は、韓国の劇団コルモッキル、演出家のパク・グニョン氏がつくる、4つの戦争の物語。それらは筋書きが重なり合うことはないけれど、ほとんど実際にあったテロや戦争、兵士の脱走事件を元にしている。
2015年の脱走兵、1945年の朝鮮人特攻隊員、2004年のイラクで米軍に食品を納入していた業者、2010年に北朝鮮をのぞむペクリョン島付近で沈没した哨戒艇の乗組員たち。本作では、時間と場所の異なる4つの「生きたかった人々」のエピソードが併行して描かれる。(引用: パク・グニョン×南山芸術センター『哀れ、兵士』)
徴兵制がある国、そうでない国
韓国はお隣の国だけれど、わたしは行ったことがない。
言わずもがな、韓国には徴兵制があって、満19歳になると男性は2年間徴兵義務が課せられる。体調や職業によって必須ではないようだけれど、多くの若い男性は兵役義務を経て再就職したり大学に復学したりするらしい。
・韓国兵役 禁煙、前髪は3cm以内、キムチ1日90g等厳格な規定|NEWS ポストセブン
もし、日本に韓国のような徴兵制があったなら。わたしの弟や友人たちも、兵士としての訓練を受けるだろう。
そして、いま戦争が起きたなら、彼らは真っ先に戦地へ駆り出される。
戦争が起きなくても、国際条約に則って同盟国が戦争を始めたら、助けに行かなければならない。
国同士のドサクサと個人の濃密な関係
今まであったことは変えられない。
歴史も、戦争も。日本が満州国をつくって現地の人たちをひどく奴隷のように扱っていたということ。今でも、過去の歴史を掘り返して「謝れ」と罵声を浴びせ合う。国同士のドサクサが、個人の憎しみに変わってゆく。
生まれた瞬間に罪はない。
ただ、この時代、この場所で生まれたが故に、問答無用で背負わされるもの、それを、暴かれ晒され吊し上げられているような心地を、観劇中は覚えずにはいられなかった。
人ごとじゃないのに人ごとでしか語れない歴史のいろいろ、細々としたこと、血。
「お前が今あるのは、彼らの死があったからだ」と言われている気がして、そしてそれはおそらく真実だから、ぐうの音も出ない。
『哀れ、兵士』の公演パンフレットに、記されたFTディレクターの市村さんの一言が突き刺さる。
「死ぬのはいつも他人」。
途中、韓国の民間人がイラクで拘束された事件のエピソードが盛り込まれていた。
けれどどうしても、わたしには2年前のISISによる日本人ジャーナリストの後藤健二さんの殺傷事件を思わずにはいられなくて、テロリストが動画撮影中に拘束している韓国人の喉元に刃物を突き立て照明がフェードアウトしていく演出は、正直、見ていられなかった。
・WHY ISIS MURDERED KENJI GOTO|THE NEW YORKER
数々の争いと死体の上に、わたしたちは立っている。そう思うと“地に足をつける”ということは、過去あったことを認め、つぐなうということでもあるのかもしれない。
同時に、過去あったことが、時を経て癒されることもある。なかったことにはできないけれど、それでもわたしはあなたが好きだ、という関係性は、確かにある。それは、どんな国や歴史を介していても起こりうる、細くてわずかな、でも強固な、希望の糸。
その糸が、ゆるやかにあちこちで紡がれて、まさに蜘蛛の巣のように広がりつつあるのを感じる。それらは、国家権力とか軍事介入で軽々吹き飛んでしまうかもしれないけれど、最後まで粘り強くつながったまま切れない。
おおきな、目に見える「クニ」という太枠は、粗い網目で実は隙間がたくさん空いている。そして、どんな王様や独裁者、政治家も、もはやこの隙間を完全に埋めることはできない。
わたしは日本が好きだし、日本の文化も大好きだけれど、どうしてもこの太枠の隙間を無視することはできない。あわよくば、この隙間を突いて、自由に枠の外と中を行き来できる生き方をしたいと本気で思う。
それは、細くて強い糸の尊さも知っているから。この糸はつまり、言語とは違う“共通言語”がもたらす一筋の希望かもしれない。
もし相手が中国が嫌いでも、韓国が嫌いでも、日本が嫌いでも、「わたし」のことは好きでいてほしいと思うし、わたしも「あなた」を好きでいたいと思うのだ。
韓国の表現規制について
これは初めて知ったことなのだけれど、韓国では現在かなり厳しい芸術作品の検閲が行われているらしい。(今回の韓国の政治騒動も検閲と関わっているかもしれない、と思っているけれど確証はないので何も言わないでおく)
『哀れ、兵士』は国策の失敗と歴史への懐疑を思わせる作品である(他にも理由はあるだろうが)ことから検閲の対象になっていた。
けれど、ウ・ヨン氏(ソウル文化財団南山芸術センター劇場長)が、思い切ってこの作品を上演し、結果公演期間を延長して観客を動員したらしい。
『哀れ、兵士』では、死にゆく兵士しか出てこない。誰も彼らを助けてくれない。敵は、アメリカだったり日本だったり、時に母国の韓国だったりする。
日本も、いつか日本の歴史や失策に懐疑的な作品は、闇へ追いやられてしまうようになるのだろうか。もう、その余波は来ているのだろうか。
芸術は、プロパガンダにも社会風刺にも使われる。だから厄介だ。どうか、これ以上、隙間を埋めないで。太枠で固められた内側は安心安全に見えてじつは緩やかに窒息死する未来しかない。
生まれる前からできていた太枠に、チラチラ見える隙間とその枠の向こう側へ風を通すのが芸術の役割なら、わたしはこの『哀れ、兵士』はその先陣であると思うし、なによりこの作品を日本で上演することを決めたFTの方々と演出家のパク・グニョン氏、そして韓国人の俳優や裏方チームに、一端の観客として、そして日本に生まれ、暮らすひとりとして、本当に、敬意を表さずにはいられない。
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