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『鬼滅の刃』が人気の理由と、あばかれる物語・あばく物語

「漫画『鬼滅の刃』が、なぜここまで人気なのか?」ということに興味がわいた。

だから、2月ごろ、Amazonプライムで配信されているアニメを見たけれど、悔しいくらいまんまとハマってしまった。

日本だけでなく、世界中の人々、しかも広い世代が『鬼滅の刃』に夢中だ。

ここまで多くの人を魅了する理由が知りたくて、導入のつもりでアニメを見たけれど、そのわけは自分がハマってもまだよく分からなかった。

だから、周りで漫画を読んでいる、もしくはアニメを見ている人に『鬼滅の刃』の何が好きなのか、聞いてまわった。

つい昨晩、住んでいる町の小学生から30代の大人まで集まった、オンラインの「『鬼滅の刃』を語る会」に参加したりした。

おそらく、いくつかの記事で言及されているように、Amazonプライムをはじめとするオンライン配信のプラットフォームに、作品がアップされていることが一番の要因と思われる。

次のアニメ放送の日まで待たずとも、一気見できる手軽さは、爆発的な拡散に一役買っているに違いない。

けれどそれは、仕組みの話。どう届けたか、という“広報”の話。

わたしが着眼したいのは、物語の筋書きのほう。

自分なりに、『鬼滅の刃』の物語の何が多くの人々を魅了するのか、考えてみた。

あばく物語と、あばかれる物語

物語の筋書きに「あばかれるタイプ」と「あばくタイプ」があるとすれば、鬼滅は後者だと思う。

わたしが初めて鬼滅に触れたのはアニメだけれど、登場人物が自分の心理を説明する描写の多さにおどろいた。

戦いの最中も、街を歩いている時も「めっちゃ喋るやん」と思った。

登場人物の葛藤や喜び、迷い、「痛い」とか「苦しい」とか「まだやれる」とか「次の手はコレか?」とか、シーンや関係性、表情ではなく全部台詞(アニメなら音声)で語られる。

語られる物語以外の感情を、想像する余地が、あんまりない。

「あばくタイプ」と呼ぶのは、そういう意味だ。

物語で主人公が積極的に、自分の思いや展開に必要なエピソードを“あばいていく”ということだ。

物語に出てくる登場人物自ら、自分の心情、過去、調子を「あばく」。告白していく、あばく物語、『鬼滅の刃』。

一方、ヒットしている漫画として鬼滅との対比がよく語られる『ONE PIECE』を「あばかれるタイプ」の物語の例とする。

『ONE PIECE』では、登場人物が自分の心情を吐露するシーンは、かなり限られているように思う。

いわゆる心の声が台詞として描かれることは、ほとんどない。

たとえば、『ONE PIECE』のアラバスタ編で、王女・ビビが泣きながら別れを告げる場面。

ビビの「もしまた会ったらその時は、もう一度仲間と呼んでくれますか」という台詞に対して、麦わらの一味は無言で腕を突き上げ、作戦のために記したバツ印を見せ、何も語らず去っていく。

けれどビビと読者には、麦わらの一味が何を言わんとしているか伝わるし、自分の想像力のなかの答えが、登場人物たちの台詞なき台詞と呼応した時、いわゆるエモさがわきあがり「かっけー!」となる。

台詞として登場人物に語らせることはなく、筋書きの行方を読者に想像させつつ、説明ではなく関係性で物語を紐解いていく──それが「あばかれるタイプ」。

鬼滅に、そうした想像力を掻き立てるシーンがないわけではないけれど、あまりにもダイレクトな台詞が多くて、わたしはちょっとうろたえてしまった。

ただ、このダイレクトな台詞の多さが、ヒットの一助を担っているのでは、というのがわたしの仮説。

SNSを通じて、小学生の頃からテキストコミュニケーションが浸透している若い世代はもちろん、20代、30代、40代まで、「言葉にする」ことに慣れている・慣れ始めている読者にとって、逐一言葉になっている鬼滅の「あばく物語」は、安心できるのかもしれない。

「書き表されていることがすべて」という、安心感。

その安心感を土台に、物語の展開を楽しめる。

なんというか「夢だと分かって見ている夢」を読み進めている感じなのかもしれない。

「自分じゃなくてもいい」という台詞

もう一つの鬼滅ヒットの理由(仮説)は、登場人物同士の関係性にあるのでは、というところ。

アニメ派の方で、単行本を読んでいない方は、以下少しネタバレになるので、気になる方はスキップしていただけたらと思う。

単行本12巻の中盤、主人公の炭治郎が「鬼になった妹を助けたいと思っているけれど、志半ばで死ぬかもしれない。でも必ず誰かがやり遂げてくれると信じている」と話す台詞がある。

数々のシーンの中でも、大きな戦いの最中でもなければ感動的なシーンではないけれど、わたしにとっては印象的な台詞だった。鬼滅リサーチ中にも、話題に上がったシーンだ。

主人公が「自分の目標を達成できなくてもいい」と公言する少年漫画……わたしはそんな作品を他に知らない(あるのかもしれませんけれども)。

またまた『ONE PIECE』を引き合いに出すと、ルフィは「他の誰かが海賊王になってくれればいい」なんて、絶対に言わない。

ただ、この2作品の主人公の姿勢の違いは、そもそも目標設定の仕方が違うところから来ている。

ルフィは誰に頼まれなくても海に出たし、海賊王を目指したに違いない。

けれど炭治郎は、家族を殺されなければ鬼殺隊にはならなかっただろう。何か外的要因がなければ、戦場に出向くことも修行をすることも、なかった。

もう一つ言うと、ルフィの仲間も内的要因(自分でこうしたい、こうなりたいという夢)があって集っているのに対し、炭治郎の仲間たちが、なぜつるんでいるのか明確な理由はない。それぞれの目標が公言されることもない(たしかそうだった記憶)。

なんとなく居心地がいいから気がついたら一緒にいる、という感じ。

熱くなる目標がなくても、一緒にいて楽しいから、居心地がいいから共にいる……というのは、市井の人々の集う様に似ている。というか、ほぼ一緒かもしれない。

友達同士で集まるのに、明確な目標を共有している必要はないだろうから。だから、ルフィは麦わらの一味を「仲間」とは呼ぶが「友達」とは呼ばないのかもしれない。

熱くなれるものがなくてもいい。やりたいことはあるけど、それを達成するのは自分でなくてもいい。

でも居心地がいいから一緒にいる。苦しいこともあるけれど、一緒にいて楽しいから、そこにいる。

一緒にいるのに理由はない、その関係性を許容している(というかそれが当たり前として描かれる)様子に、読者は関係性萌えをいだいているのでは……という、仮説。

流行するものには、時代性が反映されていたり、社会の空気がにじんでいたりして、こういうことを考えるのは楽しい。

漫画を読書中、鬼滅に散りばめられた様々なエピソードが、あまりにもトントン拍子であばかれていくので、「えっ、もっとないの? 裏切りとか、複雑な過去とか……」とか思ってしまった。

ドラマティック依存症なのかもしれない。それもまた、好みの違いでもありつつ、何かしら時代性みたいなものに培われた感覚なのかも、と思ったりした。

ちなみに、鬼滅リサーチをしていて一番おどろいたのは、父(60代)も『鬼滅の刃』のアニメを全話見ていたということだ。

もともと父がアニメや漫画に親しんでいた記憶は、ほとんどないので「おとんもアニメ全話見るんだ」というのが一番の発見でした。

おしまい。

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