おいしい、お酒
人生で初めてお酒を飲んだのは、大学入学後に初めて入ったサークルの飲み会だっただろうか。
下戸DNAを受け継いで育ち、それまで料理酒以外のお酒を見たことがなかったわたしは、もちろんイッキなんてしたことなかったし、お酌する文化もほとんどドラマの中の出来事に等しかった。
大学生になって始めたレストランのアルバイトでは、飲み物とデザートを作るポジションに入ることが多かったから、飲めないのに、お酒の作り方や種類は覚えた。
それでも、喉越しがどうとか、香りがどうとか、どんな食事と合うかとか、何をもって“おいしい”と判断すればいいのか、ずっと分からないままだった。
宴席を囲む人たちの様子を見ながら「わたしは舌がバカだから、おいしさが分からないのかな」と思ったことも少なくない。
味を確かめようと無理くり飲み進めれば、こめかみあたりで脈打つ音が聞こえてきて、目の前がチカチカし始める。
「あ、これ、貧血で倒れたときと同じだ」と思った次の瞬間には視界がかすみ、水の中に入ったように音が遠のく。
時には場が白けないようにお酒を頼むこともあるけれど、顔がすぐ赤くなるので誤魔化すこともできない。
まあ、わたしがお酒を飲もうが飲まないでいようが、誰も気にしない。
わたし自身も、とりたてて気にしていないのだけれど。
それでも、隣の芝生は青く見えるもので。
体質上、シックスセンス的なものが覚醒しない限り、嗜むほどの量すら飲めない身の上としては、お酒を楽しむ世界ではどんな景色が見えるのか──、時折思いを馳せたり、「酒呑みに告グ」なる短編を書き散らしたりもした。
でも、いま思えば飛び込めないのは体質ばかりが理由ではなかった気もする。
「自分の好きな味」が、分からなかったからだ。
頭でなく五感で判断する好みは、行儀よく言葉におさまってはくれない。
何がうつくしいのか分からない。
何がいいにおいなのか分からない。
何が楽しいのか、分からない。
でも「なんか好き」だし「ただ楽しい」し、言葉には追いつかない感度を先回りして刺激する。
言葉で伝えきれないことを共有するには、同じ感度を持ち合わせている人同士が、一番話が早い。
だからもどかしいかな、未知なる世界を頭で理解しようとすればするほど、異なる感度を持つ人の記憶には、その良さがなかなか残らない。残せない。
事実、お酒については何度も「これは◯◯産で〜」とか「これは◯◯という手法で醸造されたお酒で〜」と教えてもらったことがあるけれど、教えてくれた方には申し訳ないくらい全然覚えられない。
「知りたいという気持ちが弱いからだ!」と、暑苦しくハッパをかけることもできるけれど、なんだかそれだとますます距離があいてしまう。
「下戸だから」と言いつつ、お酒を嗜む行為に憧れていたわたしは、もしかしたら「知識が好みを教えてくれる」ものだと思い込んでいたのかもしれない。
そういう方法で、世界がひらけていくのを知っていたから、お酒についてもきっとそうだと決めつけていたのかもしれない。
けれどいくら知識が増えたところで、愛が深まるかは、別の話。
「自分の好みを知らない」というのは、おかしいようだけれど、実はありふれた感覚のようにも思う。
要するに、頭でっかちになっていたのだった。
だからこそ、あるお酒を飲んで「あ、おいしい」と自然に口から出た時は、おどろいた。
「あれ、わたし、何がおいしいのか、いつの間にわかるようになったんだ?」と。
そのとき初めて、わたしにとって、好みの、おいしいお酒が、どんなものなのか少し分かった気がした。
自分の好みを知ることが、隣の青い芝へ近づく一歩だった。
ちなみにそのお酒は、オーストリアの「エーデルワイス」というビール。自宅の近所にある、お店のマスターに出してもらったのが、出会いのきっかけだ。
いまだに、肴になるような「お酒にまつわる話」も、あんまりない。
お酒があってもなくても、その場が楽しければ気分は上がるし、量は相変わらず飲めないから、おいしいと感じた「エーデルワイス」も一本空けたら上出来、という具合。
でも、いいんだ。
好みが分かる、というのは、うーん、やっぱり言葉が足らないけれど……
なんだかとても、うれしいね。
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