見出し画像

好きでいつづけたいから、離れていよう

フィンランドのアーティスト、トーベ・ヤンソンの伝記を読んでいる。

トーベのいくつかの恋のエピソードを読んだけれど、彼女は付き合いが終わった恋人たちと、友人でいようと心がけ、実際に生涯の良い友人になったという記述が目立つ。

異性と友人関係が結べるのか否か……などという問いは、もうそろそろ昭和と平成の遺物になるのだろうか。

「異性同士でも友人関係は結べる」というのがわたしの答えだけれど、異性であろうがなかろうが実はあんまり関係なくて(トーベの恋人の一人は女性だし)、恋人同士でも友人同士でも、「好きだな」と思う人と関係を続けようとするには、どちらか一方が「そうありたい」と思っているだけでは維持がむずかしい……ほんとうに……という事実の方が重要に思う。

「あなたのことが好きだから、好きでいつづけたいから、その気持ちを大切にしあえる関係性でいましょう」という合意の決着が、恋人同士だったり友人だったり同僚だったり、さまざまな肩書にあてはまる、というだけ。

だからトーベはほんとうに、一人ひとりの恋人や友人たちと人間同士の付き合いを続けていたのだなと感じる。ていねいに、その距離をはからっている。

わたしはそこまで忍耐強くないし、ふところも広くないし、おそらく、余裕もない。

どんな人ともそうなのだけれど、親しくなって近くなりすぎると、コップの水がいっぱいになるように、思いやれるキャパみたいなものが、限界を超えてしまう。

この場合の“近い”とは、物理的距離感が近いということと、閉ざされた関係性、という意味。

ふたりしか居ない、我々だけの秘密の花園……そういう空間に入り浸る恍惚さもあるだろう。

でも、秘密の花園に居座り続けると、胸焼けがしてくる。

広い空の下、何もない荒野を裸足で走りたくなる。

だから、物理的距離を取る。

好きだから、離れようとする。

離れようとするたび「わたしは、冷たい人間なのだろうか」と、なんとなく、むなしかった。

でも実は、冷たいとか冷たくないとかではなくて、一人ひとり、「好きでいられる距離感」が違うのではと、トーベの伝記を読みながら思ったのだ。

ふたりきりの永遠の秘密の花園にいるほうが好きでいられる人もいるだろうし、織姫彦星的頻度で会えれば十分しあわせ、という人もいるだろう。

トーベの、人との向き合い方だとか、相手を描写する手紙の言葉運びから「あなたを好きでいつづけたい。あなたは素敵な人だから」という意志を感じた、という話。

もちろん伝記だから、なにもかもがほんとうなわけではない。美化されている部分も多少はあると承知している。

かなしいことが起きたり、ひどい目に遭ったりしても問答無用で貶めたり、愚痴と憎悪をぶちまけたりせず──ま、ほんとはそういう押し問答もあっただろうけれど、とにかくトーベの、相手を見捨てない前向きな姿勢が、彼女のチャームポイントなのだろうと思ったのでした。同じ時代に生まれていたら、友だちになりたい女性だなあ。

読んでいただき、本当にありがとうございます。サポートいただいた分は創作活動に大切に使わせていただきます。