マッチョ思想の昭和世代とオタク気質の平成世代が、ともに生きてゆくことについての考えごと

今時の高校生に「Facebookって使ってる?」と聞けば「使ってない」と返ってくるという。

「どうして?」と聞けば「お父さんとかお母さんが使ってるものだから(年上世代が使うものという認識で興味ない)」だそうで。

こういうエピソードを聞くと「ああ、時代はこうやって移り変わってゆくのだな」などと、安直に思う。

事実、今年で、平成が終わる。

「昭和だろうと平成だろうと関係ない。西暦だけ分かればいい」という人も、なかにはいるだろう。

けれど少なくとも、わたしにとっては生まれた時から平成だったから年号が変わる瞬間に立ち会ったことがない。

「平成」が終わるからと言って、太陽が昇って朝が来てお腹が空いたらごはんを食べて仕事をして家に帰る、という日常がガラリと変わることはないだろうけれど。

毎日、誰かが死んで、誰かが生まれているのだけれど。

それでも、「時代の節目にいる」「大きなうねりの中にいる」と感じることが、ここ数年で本当に増えたし、変化の波で肌がこすれるような生々しさに。ワクワクすることもあればあまりに痛々しくて一切合切の五感を閉じたくなることもある。

それは、単にわたしが過敏なだけなのか、それとも多くの人が感じているほど激烈な変化なのかは、分からないけれど。

「平成が終わる」と言えば。

年号が変わること以外にも、「時代のうねりによって生じる摩擦」を体感することが、しばしば。

昭和生まれの世代(特に30代から40代)と平成生まれの世代(10代、20代)が一緒に仕事をする割合が増えてきた。

会社によっては全員平成生まれというところもあるだろうし、平成生まれのボスのもとで昭和生まれの世代が働いているというチームも、ゼロではないと思う。

世代が違っても、うまくバランスが取れていればいい。

けれど、そのバランスの取り方が分からなくて戸惑っている人も、結構いる気がして。

「昭和世代っぽい」とか「平成世代っぽい」という分け方をするのは、あんまり好きではない。

けれども、平成生まれはオタク気質、昭和世代はマッチョ思想を重んじる、という一定の傾向はあると感じている。

この「オタク気質」と「マッチョ思想」の間には、高い高い壁があって、その壁を前に「どうしたもんか」と途方にくれる、昭和世代と平成世代、どちらの心労も聞こえてくる、最近です。

マッチョ思想は、簡単に言えば体育会系のノリのこと。

頑固一徹な先輩に、理不尽なことを言われても「ここでの苦労がいつか自分の力になる」と言い聞かせて歯を食いしばってついていく、そんな姿勢。

いまでは時と場合を間違えるとパワハラと呼ばれかねない「飲みニケーション」をはじめとする、いろいろなことを経験しながら青春を過ごした人たちは、汗臭いことも一見無駄なことも器用にこなしてきたのだろうと思う。

年功序列を重んじ、“常識”の基準を共有している世代だ、という印象。

一方オタク気質は、好きなこととか興味のあることに対して、時間もお金も惜しまず使い、どっぷり浸かることが得意な傾向のことだと、わたしは思っている。

共感の度合いによってコミュニティを作りがちだけれど「分かり合えない」人を強烈に排除するわけでもない。「人は違って当たり前」という思考がだいたいプリセットされていて、とても省エネな人間関係を築くし「理不尽な苦労は時間の無駄」という感覚が強く、自分の心地よさに正直な人が多い印象。

このふたつのタイプの人々が、同じ職場で、同じチームで、同じ組織で、同じ目標に向かって突き進む──そうなった時、お互いの傾向を理解しようとしないまま、お互いの価値観をぶつけあったところで、一緒に協働すべきパートナーなのに、世代間の壁の向こうにいる相手が見えていないという、キャッチボールではなくて壁打ちのような会話が生まれる。

かく言うわたしは、平成3年生まれ。

いわゆる「ゆとり世代」どっぷりで──「ゆとり世代」と言えば、中学生の頃、大学の教育学部附属の学校だったこともあり授業内容がコロコロ変わったり、教育実習生が1年に何度も来たりしていて、ちょっとスレた勘の良い友達は「わたしたち、ゆとり教育の実験台なのよ」というようなことを指摘し、能天気なわたしは「そうなんだ!」とハッとした記憶が蘇る──そんな平成3年生まれでも、傾向が分かれるなあ、と思う。

わたしの場合は、ちょうどこのスレた中学時代の頃からだろうか、心の中に松岡修造が暮らし始め、くじけそうになると「お前ならもっとやれる!」「熱くなれよ!」と自分にハッパをかけてくる。

だから、基本は「好きなこと」だけしていたいオタク気質なわたしでも、心の中の修造に鼓舞されて、多少辛いことやキツいことも、まあまあ自分自身を納得させられるようになった。

大学時代に「お金を稼ぐために、たいして興味のない仕事を必死にする」ことを経験し、それが嫌すぎて憂鬱すぎて気が狂いそうだったから、二度とするまいと決めたクチでも、「好きなこと」になら、いくらでも食らいついていける。

「“好き”を仕事に」と言われて久しい。

おそらくオタク気質の平成世代にとっては、これからもっと生きやすい時代になってくるだろう。

同時に、「好きなことにどっぷりハマる」ことすら、きっと能力の高さとして認められるようになってゆく。

実際、うんと年下の男の子や女の子が、時代に先駆けたイケてるサービスを提供したり、価値あることに対して楽しそうに取り組む姿を見て「すでに、そういう時代だ」と感じずにはいられません。

「“好き”を仕事に」することは結構だし、わたしもそうしないと野垂れ死していたタイプだろうから時代の風に救われた側なのだけれど、一方で、平成世代を前に困惑するマッチョ思想の昭和世代の戸惑いも、すごく理解できる。

……これはわたしの勝手な推測だけれど、マッチョ思想の昭和世代から見ると、オタク気質な平成世代は「楽をしている」ように感じられるのかもしれない。

でも、「好きを仕事にする」というのは何も『楽して稼ぎたい』わけじゃない。

言いなり通りに動いたり誰かの真似をしたりした方が、どれだけ楽な道だろう。

自由という名の下に放り出された平成世代は、生まれた時から、自由の手綱を握っている。

何ものにも縛られない分、自分の頭で考えなければ簡単に時代の風に吹き飛ばされる。手綱のコントロールの仕方は、誰かが指南してくれるわけではない。

どうして、マッチョ思想とオタク気質という違いが生まれたのだろう、と考えていておぼろげに見つけた一つの答えは、愛情の分配比率が違うことで起きる齟齬なんじゃないかな、ということ。

広く浅く愛を注ぐか、狭く深く注ぐか、という違い。

マッチョ思想が培われた時代は、「みんなでなんとかする」ことで、大きなインパクトを生み出す時代だったように思う。

前例がない中で、トライ&エラーを重ねて仕組みを作り、不特定多数の「みんな」で「社会的にインパクトの大きい経済活動」を行うことが求められた時代だったのかもしれない。

だからこそ広く浅く、いろんなひととうまくやっていく必要があって、そのためにいろんな人に対する気配りや忖度があった。

一方平成世代は、規模の大小に関わらず、嗜好の近いコミュニティで深い共感を求め、それが得られる場に集う。社外的インパクトの大きさより自分の満足度を満たすことのほうが優先度が高い。

今だって、広く浅い愛情が求められていないわけではない。

でも半径3メートル以内の小さな愛情の波紋が、少しずつ、広く遠くへ広がっていけばいいという価値観の方が、わたしの周りには多い。

まずはその小さな波紋をいかに作れるかということに、関心が集まっている気がする。

平成に入ってからというもの、「みんな」で生み出す「社会的にインパクトの大きい経済活動」は、すでに飽和状態で、自由の手綱を握りしめた平成世代は諸先輩方のあとを追うだけでは何も育めないことを直感で学び、自分の感性に従って道無き道を切り開くしか生き残るすべがなかったのかもしれない。

なんの根拠もないけどさ。

愛情の分配比率は、もともと個人で違うけれど、時代背景によっても影響されるものなのかもしれなくて、あながち間違っちゃいないと思うけれど、本当のところは分からない。

わたしは、松岡修造が心の中にいるおかげでどちらの感覚も分かる。

オタク気質の平成世代に「意志はあるのかないのかはっきりしてくれ」とイライラしたこともあるし、マッチョ思想の昭和世代に「好きじゃないことを押し付けないでくれ」と不快な気持ちになったこともある。

お互いに「どうして分かってくれないの」と頭を抱える理由も分かる。

でも、手をこまねいているだけでは何も解決しなくって、「どうして分かってくれないの」と言っている間に世界は平成すら、終えようとしている。

自分が経験してきた“正解”なやり方とかこだわりとかを捨てるのには、とても勇気が要る。

誰かを信頼するのも、傷つくかもしれないから、とても怖い。

でも、世界は広い。

相手を理解できないことへの苛立ちは、自分が信じてきたものや固執してきたものを手放すことで昇華されるかもしれない。

自分の常識が通じないことなんて、ごまんとある。

「理解できない」ということは、そこにはまだ自分の知らない新しい世界があるということだと信じたい、と思うのは、綺麗事なのでしょうか。

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