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好きという種

以前フランス人と知り合った話を書いた。彼との日本語の会話は素直になれて直接的な表現じゃないと通じないことも多く、だいぶ大人になってそこそこ日本人と関わってきた日本人の私には新鮮なことや童心からの大人の表現を共存させていく面白さも手伝って、単純な会話すら丁寧に話そうと努力することができるようになった

彼は、私のASDにとても興味をもちADHDの要素にも関心をもつ。ほとんど毎日ある彼からの連絡が少し空いた。話しかけてみると、色々と疲れてるようでそれが人間関係だった。東京にいるときは気にならなかったのに、パリの人はイライラしてるってこと。コロナ関連かと聞いたらそうではなくて、妙に他人を意識してる彼の心が伝わってきた。

私のイメージだと、ミツバチとスズメバチみたいに同じハチだけど種類が違うと意識が変わるのかなと。私もフランス人だと思うと別物にかんじて、同じ東京だと意識してしまう。

でもちょっと違っていて、彼は繊細で敏感なHSP要素を持つのかと思った。人と違う違和感からの自分探しとして、発達障害からメンタルの事。普通の人の範疇やらなにやら。だから興味を持つのかと。生き辛さは万国共通かもしれない。

そこで、私は極端な人なのもあるけど、好きな人らとそうじゃない人らの例えをだした。

「それはまるで、食べれない果実にせっせと水と肥料をやるようなものだから、私は、私の庭に植えた果実に水と肥料をやるようにしてる。実を結ぶか結ばないかは後にして育てることに意味を見出す。だから、疲れるよりも 私の庭に植えられた好きという種に感謝する」

彼は え!果物に感謝するの?

私は気持ちの高まりの表現が例えになってしまって、彼を困惑させてしまったのだ。

「食べれない果実≒他人。 私の庭の果実≒好きな人たち。 実を結ぶか結ばないか≒気持ちを注いだことが結ばれる事。 だから私は、好きという種がどうなろうとある事に感謝する。だから善意でも当たり前でも色んな人に優しさや恵みを与えたり期待したりせずに、それは疲れる事だから自分が好きと思う人たちに気持ちを集中させて関係を作っていくことが疲れない事かと」

結局回りくどく表現に酔った口調になってしまい反省してしまった。でも、器用な人が出来ることで、不器用な自分にはできずにそんな状態になったとしても伝えることは諦めないでいようと思った

彼は、理解してくれたけど集中さの難しさを考えはじめた

本当に優しい人は、例えば世界の災害や知らない人の不幸に嘆いて心を消耗させるのだろう

私はそうはできない、生きることで精いっぱいだ。触れることができる人、関わってくれる人のために何ができるかしかできない利己主義だ

でも優しい人が好きで、私にも同じように私の事を思ってほしいと願ってしまう。同じ利己主義同士なら問題ない事かもしれないのに、惹かれるのはワールドワイドな人ら

庭に植えた好きの種は、枝葉を伸ばし遥か彼方で実をたらし、私はその根っこを斧で切りたい衝動に駆られる。なぜこの庭に実をたらさないのかと。でも切る事は出来ないやっぱり好きから育った行く末だからと。

私の中をえぐられるような本心をフランス人の彼は素朴に露出させてくれる。荒治療だけど、その痛みはいつか癒しに変わる気がしてならない。

やはり自分の問題は自分の心が解決してくれる。納得いくのは洗練された自ずからの正論だから

でも「好きの種」という表現は我ながら可愛いいなって思ったの



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