第十話 『愛と秩序の四時間目 小学六年生への社会学講義』
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「パーソンズは秩序問題を行為の観点から考えたんだけど、その背景にはそれまで想定されてきた伝統的な考え方…『功利主義』を乗り越えようとする狙いがあったの。先に、この狙いについて説明するわね」
愛は「パーソンズの狙い…功利主義的な行為論を乗り越えること!」と黒板に書き出していく。
すると、早速書き写そうとする生徒らの様子が目に入り、内心で嬉しく思いながらも「すぐに書かなくても大丈夫だからね。あ、どうしてもノートに取りたいって人は書き留めておいて」と呼びかけたのち、生徒らに問うた。
「まず、功利主義って言葉、聞いたことはあるかな?知ってる人はいる?」
ほとんどの生徒が眉間にシワを寄せるか、首を左右に降っている。
その中でさっと手を上げたのは、やはり未来であった。いつもに比べるとやや緊張が見えたが、未来が質問に応じる際の正答率は100%だ。愛の問いかけに挙手した、ということは自信があるのだろう。
「笠原さん一人だね…よし、じゃあ笠原さん。お願いします」
「はい。利益になるかどうか、損得勘定を基準に良し悪しや物事を決めるような考え方、です」
未来の博識ぶりはさすがである。つい興奮気味に「さすが笠原さん!」と返すも、未来はほっとしたような面持ちをほんの一瞬見せただけで、愛からすっと視線を逸らし、着席した。
…大丈夫かな、笠原さん。
何が、ということははっきりしないものの、陰りを感じた。
心配は心配だが、今はこの「脱線」を無事に終着させなければ――
愛は未来(みらい)に対する違和を一旦心に留め置き、軽く息を吐き出して気持ちを切り替えた。
「ここで、みんなに思い出して欲しいのがホッブズよ。彼の主張をおさらいしましょう。電子黒板を見て」
昔、大学の講義で発表するために作ったファイルデータにわずかな修正を加えたスライドを転送する。
消さずに保存しておいてよかった。愛は心の底からそう思った。
愛のクラウドには、教師になってから作成した教材や資料だけではなく、学生時代の勉強ノートや発表用スライドやらが山ほど保存されている。
クラウドの空き容量は減る一方だったが、「いつか役に立つかもしれない」と躊躇う気持ちがいつも邪魔をして消すことはできなかった。
結果、とうとう容量無制限プランに申し込む羽目になり、いつ訪れるかもわからない「いつか」を待って月々の料金を払い続けてきたわけだが、よもや小学生相手の授業で役立てることになろうとは。
【ホッブズの社会理論】
①秩序なき自然状態では、人々は互いに自由や利益を奪い合う戦争状態に陥ってしまう
②人々は自らの自然権を互いに放棄して国家と契約することで、自分たちの安全や利益を守ってもらう
(=社会契約による解決)
→「損か得か」で人の行動が決まる、という功利主義の見方が示されている
「①と②は、さっき説明した内容だから大丈夫ね。ここで重要な点は、矢印が示す部分の『損か得かで人の行動が決まるという功利主義的な見方が示されている』ところよ。どういうことかというと、ホッブズが捉えた『社会』は、典型的な功利主義の特徴を示していたの」
「『社会』が…功利主義の特徴を示す?」
困惑した様子で翔吾が言った。
愛が声をかけるよりも先に、翔吾は挙手と共に話し始めた。
「一回整理させてください!功利主義っていうのは、さっき笠原が言ったような『損得勘定を基準に物事を決めるような考え方』ですよね。それで、矢印部分にある『損か得かで人の行動が決まる』のは…そっか。少し言葉は変わってるけど、内容的には功利主義と同じ意味だから『功利主義的な見方』になる…のかな」
「その通りよ」
「そこまではわかりました。でも、ホッブズの捉えた『社会』が功利主義の特徴を示す、っていうのが、やっぱりわかりそうでわかりません!」
清々しい口ぶりで翔吾が言い切った。緋沙子をはじめとする多くの生徒らも、翔吾の「わからない」に加勢するかのように、小さくうんうんと頷いている。
わからないことをわからないと率直に言えるのは翔吾の大きな強みだ。
子どもに限らず、人は「わからない」と言うことを躊躇ってしまいがちだ。その傾向は大勢の前だと尚更である。
理解できていないのは自分だけかもしれない、こんなこともわからないなんて恥ずかしい、わからないと言ったら迷惑をかけてしまうのではないか。劣等感、恥の意識、罪悪感。愛にも身に覚えがありすぎる。素直に言えず、強がって、理解するチャンスを何度も逸し、結局後で苦労した。
――だからこそ、だ。
まずはこのクラスの中でだけでも、「わからない」を恥だとか、言ってはいけないなんて思わせたくない。「聞くは一時の恥」と言うが、「一時」だって恥ではないのだ。
翔吾以外の生徒もわからないと感じたならば、進んで声を上げることができるように。
愛は願いを込め、翔吾に、皆に、語りかけた。
「眞家さん、ありがとう。わからないことをはっきり伝えてくれて、とても嬉しい。もしかすると、わからないって言うのは恥ずかしい、周りに迷惑をかけるんじゃないかって思う人もいるかもしれないけど、それは違うわ。少なくとも、このクラスではそんなこと気にしなくても大丈夫」
ほとんどの生徒が、目を丸くして愛を見ている。
「それにね、『わからない』っていうのは、一概に理解力のなさからくるものでもないのよ。自分だけわかってないんじゃないかな、なんて恥ずかしく思う必要なんてない。理解できているところがはっきりしているからこそ、そうでない部分をちゃんと認識できている。そういう意味において、『わからない』っていうのは、理解力あってのものとも言えるわね。ちゃんと理解しようとする人ほど、わからないことをほったらかしにはしないものよ」
その「わからない」は、他の誰かも訊きたかったことかもしれない。「わからない」の共有により、互いの理解の程度についてすり合わせもできる。メリットは多い。…が、それらを説明されて納得したとて、集団の中で質問することに対する心理的負荷がすぐに取り除かれるわけでもあるまい。
それぞれにペースというものがある。タイミングというものがある。自分がすべきことは「押し付け」ではない。
「…って言っても、すぐに実行に移すのは難しいと思う。先生も最初は恥ずかしかったなぁ。うん。後で聞きにきてくれても大歓迎だから、わからないところがあれば遠慮なく質問してね。とにかく、六年二組は『わからないこと』をどんどん共有して、バンバン解消していきましょう!…ああ!しまった、余裕ぶって話してる場合じゃなかった!」
今日は焦ってばかりだ。しかし、愛の頭はこれまでになく冴えている。
そして、六年二組の面々も、これまでになく愛の話に集中している。
「ホッブズの捉えた『社会』が功利主義の特徴を示している…これがどういうことかというと、」
愛は該当する板書を指差しつつ言葉を続ける。
「ホッブズは、自然状態のもとでは利益や自由の奪い合いが起こって戦争状態に陥ると考えていた。ここまではOKよね。この話をもう少し詳しく説明すると、次のようになるわ。
人々が目的とするのは利益や自由の追求。それらを追求した結果、奪い合いになって終わりなき戦争状態になる。これがどういうことを示しているかというと、目的を達成するためなら、人は最も有効で合理的な手段を選択するという姿をホッブズは描いていたっていうことなの。有効で合理的な手段とは、暴力とか人をあざむき騙すことよ」
「えーっ。最も有効で合理的な手段とか言ってるけど、そんなんただのやばい奴やん!」
苦々しげに眉をひそめた緋沙子が言う。
「そうだよな、目的達成のためなら暴力も騙すことも厭わないってことだろ。そんなだったらそりゃ戦争になるよな。しかもそれが最も有効で合理的な手段とされる社会とかすげー嫌だ…って、あ!なんかわかってきたかも!」
翔吾が閃いたようだ。義教がそれに続いて言葉を継いだ。
「うん、僕もなんとなくわかった…かも。つまり、ホッブズが描いた『社会』は、人々が目的達成のためなら暴力もふるってお互い滅し合うような、秩序も何もない戦争状態なんですよね。僕たちの感覚だと、暴力とか人を騙すのはいけないことだって思うけど、ホッブズの考えでは最も有効で合理的な手段だから、目的達成のためなら当然のようにそれらが選ばれてしまう」
義教が言い終わると同時に、玲緒が一度目の発表よりも高く手を上げた。
「…私も、わかってきたかも、です。えっと、功利主義の…損か得かに判断基準を置くっていうのは、言い換えるととても合理的な…目的に合った無駄のない考えを指しているわけですから、人々が目的達成に向けて合理的手段を選択して戦争になるようなホッブズの描いた社会は、すごく功利主義的な特徴を示している、という話になる…のかなって」
素晴らしい。
愛は拍手を送りたくなった。
「そう!そうなのよ!ここで、功利主義を乗り越えようとしたパーソンズ、の話に戻りましょう。
ホッブズの描いた社会や人間像っていうのは、きわめて合理的なところが強調されていて、功利主義的に捉えられているんだけど、既に意見も出ている通り、人間はそんなに合理的に行動できるのか?っていう疑問が生まれるわよね。人間の行為はいつも損得や利害で決まるものでもないんだから。
解決策としてホッブズが打ち出した社会契約にしても、本当にちゃんと契約してくれるのか?合理的な側面ばかり目立つ人間が、契約をちゃんと守り続けてくれるのか?なんて疑問が出てくるし、もっと良い条件があった場合、損か得かで合理的に判断されると簡単に契約を破られてしまう可能性だってあるわよね。
要するに、功利主義では、現実の社会や人間の行為を上手く説明できていないのよ。パーソンズはそれを乗り越えようとしたというわけ」
点と点が線になっていく様はいつだって気持ちがいい。
ようやく、ゴールが見え始めている。
「社会契約によって秩序がいっとき成立するかもしれないけれど、それが維持されるかどうかは人々の出方次第なんだし、それってとても不安定な状況よね。人々の出方次第…言い換えると人々の行為の問題ってことなんだけど、まさしく、パーソンズは『秩序問題』を相互行為の観点から考え直したの」
物言いたげな未来の視線を感じ、愛は「しまった」とタブレットの音声認識を起動させ、
「相互行為っていうのは人々の間でやり取りされる社会的な行為のことよ」と皆に向かって付け加えた。
ちらと未来の方を見遣ると、電子黒板に転送された説明を熱心に書き写している。
よしっ、当たった!
その喜びが顔に出てしまっていたのか、翔吾に「先生!なんでニヤニヤしてんですか!早く続きを教えてください!」と突っ込まれてしまった。
いけないいけない。
愛は笑顔で頷き返し、「脱線」に戻った。
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