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「内向き日記」からの小説の感想・大庭みな子「三匹の蟹」

すべてが順調なのに、とても疲れている感じが、この頃する。

一つ一つが愛しくて、じぶんなりにできることをやって、それを相手や周りもきちんと受け取ってくれ、奇跡のようにうまく循環している。

これまでの不毛な関係や職場に比べたら、雲泥の差。

有り難くも嬉しい、感謝感激の状態。

でも、わたしは、疲労感がぬぐえない。

なぜ、わたしは、どこか疲れてるんだろう。

しかも、どうして疲れているのかも、原因が一つに絞れないくらいに、蓄積してしまっている。

今日は、これでは、駄目だな~と思った。

今朝も、出がけに、夫に対して、剣幕な言い方をしてしまった。

おとといも、外出するとき、不満を、夫にぶつけてしまった。

いつもだったら、受け流したり、自分がフォローしている部分も、心身に余裕がないから、全部むき出しになってしまう。

単純に、いまのわたしに、ゆとりや余裕がないのだとおもう。自分をケアしきれていないのだ。

ここ数週間だけではない、ここ数ヶ月の単位で、仕事と子育てと家事が、すべて自分に集中していた。

仕方が無いとは、理性では分かってはいるけれど、ものすごく疲れていた。やりこなせてはいるけど、クタクタだった。

心身ともに、オーバーしていた。

そこで、夫に八つ当たりしてスッキリすればいいのだが、

一番好きな人に感情的になったことで、ずっと罪悪感を抱き続けるのが、私の性格。

そんな八つ当たりした自分、嫌なことをいった自分、不平不満を言った自分は、「悪い」と、ジリジリ罪悪感や自分責めが入る。

そして、そうやって小出しにしている感情も、そのうち相手から「ウザがられ」て、愛情が冷めて、嫌われ、憎まれたりするようになるだろうと、自分の中で疑心暗鬼が膨らんでくる。

この頃気づいたのは、私は、相手の男性の熱が簡単に冷めて、夢が褪せたみたいに、素っ気なくなるのではないかと、どこか不安があるのだということ。

どうしてだろう?これまで交際していた人で、そんな風な冷め方をした人がいたわけではないのに。

むしろ、愛という名のオブラードに包んで、実はわがままだったり、支配欲や自己中心的な人がいたくらいで。

・・・・とここまで書いていたのが、三日前。

この日、マッサージに行き、60分指圧してもらったら、だいぶ楽になった。

どれほど疲れているか、自覚できた。

忙しいのは引き続きだが、自分の心身の疲労度を自覚してるか、していないかで、だいぶ対策の仕方が変わるので、その一点だけでも断然違う。

いま、とある仕事で、大庭みな子『三匹の蟹』関連の文献を読み直しているのだが、時代によって受け止められ方がこんなにも異なるし、

論者が男性か女性かによって、また思想性によって、こんなにも読み方が違うのか、と、あらためて感慨深い。

フェミニズム研究やジェンダー学を熱意をもって学んでいた頃、「対幻想」という言葉に出会った。

しかし、ウーマンリブが盛んだった時代とは異なり、現代人は、もはや制度的にも恋愛的にも、「対幻想」から自然と解放されて、さらにその先を行っていると思ったりする。

そういうところにいると、自分はいわゆる「古いタイプ」の女だな~と思う。

なぜなら、一周回って、やはり男性がいたほうが楽しいという結論に至ったからだ。

なぜだろう。

おばさんになったということだろうか。

性的な視線でまなざされ続けること、性的魅力によって女性たちが品定めされること、それに付随するあれこれが、とにかく面倒で、

体にまとわりついた蜘蛛の巣みたいに、いつだって、それを払い落としたかった。

恋愛の格闘に敗れて、底の底までいって、一人で生きていこうと自然に思えたとき、

それでも飽きずに、やはり誰かいたほうが楽しいと思った。

人間の孤独は、男女だから傷つけ合うという論理とは、もっと別次元で、

人間性そのものがむき出しになるやり方の、エゴの傷つけ合いだと知った。

それは男だから女だからという次元よりも、もっとえぐい、人間性そのものの問題。

それを腑に落ちて理解した上で、それでも、誰かと一緒にいられたほうが、楽しいと思った。

自分とは違う意見や視点をいってくれる他者がいたほうが、自分の世界は広がる。

こういう感覚も、じつは、ちょっと「古い」のかもしれない。創作の表現の世界では。

大庭みな子の世代がみていた、旧来の男女のあり方=対幻想の解体と、自我意識は、それが普通の地点から生まれ育っている現代の若い世代とは、全く違う。

夢物語が終わった後の世界。

「本当のこと」は語りえず、語ることができたとしたら、言葉にした瞬間から、嘘くさくなっていく世界。

展開や結末がわかりきった、古びたアナログのゲームを、あきずに何度もくりかえす。

そういうのも、面白いじゃないか。

お互い、「本当のこと」はわかっているけど、そんな虚構を分かった上で、役を演じながらも、どこかにほんとうが入り込んでいるなんて、あわれで、さみしくて、悲しいものじゃないか。

そんな共感が、大庭みな子の描いた世界だと、私は感じる。

(2019年7月)

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