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物言う女。

物喰う女もいいけど。


物言う女になりたい。




何か書くとき、いくつもの自分のモードがある。


トリリンガル?が、

複数言語を駆使するかのように、

「私」や言葉を使い分ける。


研究論文の時は、特に、抽象性の高い「私」。 
それは個人を限りなく万人視点に近づけて、
私の個人的属性はかき消す。


回りくどい言い方かもしれないが、
書き手である私が女性だと意識されない言語、コードと、いってもいい。


つまり、男性と同じ言語、コードを自由自在に駆使し、なるべく上質で新しい視点や意見を提示すること。かつ研究分野で流行している手法を用いると受けがよい。それが作法。


抽象性のそれは、
ある意味、表現ならではの「自由」ともいえて、
どこまでも純化していって、
私本来の肉体の性別をこえた、
より高次の言葉や認識に到達できるのでは?とも、思う側面もある。


そこで、立派によい作品を作れれば、
能力も才能もその業界の基準で一人前と、
評価されるのだと。


昨夜ふと「評論とはなにか?」をいう疑問がわいてきて、

現状、唯一の文芸評論の新人賞である、群像文芸新人評論賞の歴代受賞者をみてたら、

予想通り、男性ばかりで、
あらためて、ため息。 


やはりな、と。


同じ群像新人賞でも、
小説では、たくさん女性が受賞してる。


おまけに、選考委員の顔ぶれ見てても、
小説部門は女性作家も半数入ってて、五名。


評論は、東浩紀に、大澤真幸、山崎むつみ、と三名。この顔写真みただけで、引くわ(笑)。
知のマッチョ?。


もちろん、作品としての質や内容は、
そんなあまっちょろい性差のえこひいきとは関係なく、
本当に良い物は、男女ともに、残る。


筆者の性別なぞ問題ではなく、
良質と感じさせる、認めさせる仕事をする。
作家の器、力って、
そこまでいって、初めて作家なんだと思う。


しかし、なぜ、評論と小説では、、、のこの疑問。


私は、この違いって、わかるような気がするのだ。
感覚として、わかる気がする。



より広義での現代を生きる一個の自我が、発信する言葉、発する言葉。
それが評論の言語なのかもしれない。


社会派雑誌のコラムを書いているとき、
この感覚に、
すこし個人的な自分も織り交ぜながら、
また別の語りに自分が近づいてるのに気づいた。
この自我だと、すこし私らしくいられ、
自分ならではの感覚や感性も出せる、と思う。


では、女性としての言語やコードを使うようになったのは、どこからかといえば、
私の場合、大学院で初めて、
女性文学研究やジェンダー批評に出会ってからだった。


それまでとにかく標準レベルになろうと、
従来の研究や、オーソドックスな論文のスタイル、文体ばかりやっていたから、
目から鱗ばかりだった。


あっという間に傾倒した。


その情熱が、
文章や視点にまで現れるようになると、
魔女狩りのように、
指導教官(伝統的研究スタイル)からも嫌みを言われるようになり、つらい思いをした。


やがて、器用に、
二重言語を使い分けるという、
複雑な進化を遂げた。


それから、いろんなスタイルを使い分けて、
論文や、コラムや、書評やら、書いている。


自分は一体なにを書きたいのだろう、
と思うときもある。


たとえ、言語や表現がいろいろだとしても、
核にある精神、主題、テーマが、
自分の本心から出ていれば、
そこに生命が入り込むのだと思う。


逆にどんな言葉や表現を使っても、
自分の魂が入り込んでいないと、
心に残らない。


やはり、主題や精神、問題意識が先なんだという考えだ。



そして、こうして色々書いたけれども、

結局は、

すべて、逃げや言い訳なのだと、反省した。


たとえ、魔女狩りにあおうと、

人に受け入れにくい個性や志向性だとしても、

本物ならば、

やはり世に出て行くものだと思う。



そこまでやらなきゃ、だめなんだ。



先日、とあるイベントで知人から紹介された、

私と同い年の、

やはり高校教員をしている男性。


彼の名前が、

群像文芸新人賞の評論部門の、

優秀作のところに載ってるのをみたとき。


正直、凹んだ。


やるか、やらないか。


それだけなんだ、とあらためて思った。


自分を試すか、試さないか、だけなんだと。


私も力いっぱい、試さなければいけない。


全力で試してから、

○○がだめだとか、

なにかのせいにするなら、

まだしも、なのである。

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