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丸山さんのであることとすること

そろそろ、試験シーズン到来。

年度末、つまり学年末である。

個人的感覚だが、丸山真男の『であることとすること』は、高校国語の評論のなかでいわば卒業検定のような位置づけだと思っている。

三年間いろいろ国語で学んできて、難しめな文章や古典的な文章も読んできて、読む力がついてきたところで、これを読む。

もはや、作家が近現代の人でも、いまの若者には古典の部類に感じられるようで、たいてい、よくわからなかったという感想を聞く。

そんな彼らが懸命に試験を受けているのを監督しながら、ふと思ったことがある。


「である」ことと「する」こと、という二つの極は、いろんなことに援用できる。


たとえば、女性のこと。


丸山真男は、「である」価値を、従来からの日本に根付いていた前時代的な、封建主義的な価値観だとする。

一方、「する」価値は、欧米からやってきた、近代的で民主的な、行動や内実を問う価値観だという。

これからは"to be or not to be"  ではなく、"to do or no to do"が問われると。

「花か、果実か」なんて、比喩もでてくる。

ところで、

心屋仁之助さんの考えで、「存在給」という考え方がある。

存在しているだけで価値があり、存在しているだけで感謝され、お金になる人のことを存在給とする、考え方だ。

なにもしなくても、お金がもらえる。存在しているだけで、価値があるということになる。

心屋さんが提案していることは、かなり極論だが、それも成果主義が過剰すぎる現代人への慰めになっているんだろう。

それらもふまえながら、私が思ったことには、現代の女性への評価や、女性に求められる価値観も、この「である」ことと「する」ことの、ごった煮状態だということ。

存在しているだけ、そこに居るだけで、ただ、愛されたり、認められたり、肯定されるという価値と、

その人がなにかができる能力や実力、これまでの成果や業績、やってきたことなど、本人の成し遂げてきた内実で判断され、評価される側面と。

女性には、両方ある。

しかし、哀しいかな、女性への世間的評価は、「する価値」だけでは、定まらないところにある。

旧来からの「である」価値としての女性としての魅力、外見・内面もふくめた存在そのものみたいな側面で、けっこう、世間にはみられる。

それが、いわゆるジェンダーというやつだ。

私は、「する」価値だけで、自分を人に認めてもらうのが、真実であり、本物だとずっと思ってきた節がある。だから、生きづらかったし、いまでも少々おかしいのだろう。

しかし、根深い「である」価値の恐ろしさよ。

ただ「おんなである」価値だけで、得をしたりもするので、一概にそれが悪いとも言えないのが、これまた恐ろしい。

そしてまた、同じ理由で「おんなである」ということだけで、損したりもするのだから。

ということで、丸山真男が提示した二つの極「である価値・する価値」は、案外本質的で、いろいろなことに応用できる代物なのだった。


カリカリカリと、鉛筆の音が響く、テスト中の静かな教室で、ぼんやりと、そんなことを思っていました。






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