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1hour

どんなに哀しいことや、ショックなことがあっても、とりあえず目の前の仕事をこなさなければいけないのが、大人というもの。

今日も、つまらない、眠い話ばかりしているな~と

彼らの目からみたら、思ったかもしれない。

いつもと何も変わらない、冗談をいいながらも、きつく注意しないわたしを。


でも、この人は、いま、自分の家族が難病で、何度も入院し、いまも再入院しかけていて、それを、その講義が始まる数十分前に知り、心が動揺したままで、とにかく堪えて、淡々と講義をしているという事実を知ったならば、どうだろうか。

時間は、ただ一定のものだし、誰にも平等に与えられている。

その時間を、何に使うか、何をするか、どんな付加価値を与える/与えられるかも、個人差がある。

時間をどのように使うかは、人の自由だ。

でも、時間は自分だけの時間ではなく、

時に、その時間を共にする人のもの、でもある。

そのときの1時間は、彼らにとって、ただ通り過ぎる、無駄遣いだったかもしれない。そこに座って、ただ通り過ぎるのを待つ、指示されたとおりの作業をして。

でも、私にとっては、そんな風に思われるくらいなら、

その1時間は、自分の家族のために使いたかった。

無駄な一時間と思われるくらいなら、もう参加してくれなくて、けっこうだ。

しかし、彼らとともにあることが、彼らに講義することが私の「仕事」であり、時間を売っているので、しかたなく、そうしていた。

私が売る側ならば、彼らが買う側で、ある意味でお客様だ。

でも、価値がわからない人に、

自分を、自分の時間を、売りたくないという思いが、わいた。

だって、本質的には、時間はお金では買えないのだ。

いま、この瞬間は、刻一刻と通り過ぎる、一回性のものであり、不可逆なものなのだから。

また別の1時間を代わりに自由にしていいよ、といわれたって、

まったく同じ1時間ではない。

彼らと同じ年ごろだったとき、私もまた、彼らのように時間が無限にあるような感覚に浸されて、日々、同じような毎日を、平凡に通過していた。

もちろん、その年齢独特の閉塞感と焦燥と、自意識と憧れ、嫌悪感を煮詰めながら。自分にしかわからない尖ったものを磨きながら。

そのとき、自分のことでいっぱいで、やはり、目の前の大人が抱えているものなんて、やはり、なんとも思わなかった。膜の向こうの存在で、彼らのほうが至極安定して、葛藤がなさそうにみえた。

でも、今こうしていると、大人のほうがハードだと思う。

でも、そこで、わかっていながらも、俯瞰しながら淡々と、最低限の良い結果へもっていくよう努めようとするのは、自分が大人だからだとわかる。「仕事」だからだ。

しかし、なんの因果か、「先生」と呼ばれる職業に就き、世間から倫理感やありうべき姿なぞまで望まれ、「模範となる大人」として見本となれ、、、のように要求されると、非常に息苦しいし、私はそもそも、そういう人間ではないと、心の底から思うのだ。

表面上の穏やかさや、凡庸さ、平和と調和を好むような道徳的なタイプにみえて、本当は無秩序のほうが好きだし、破壊と創造、狂気のほうが好きだ。

そもそも、パンク寄りの人間。

ぶちまけたくなりそうな気持ちを、音楽でごまかす。

ずっと、頭のなかでビリー・アイリッシュの曲が流れていた。

なにを言われても、おまえには、わからねーだろうという言葉にならない憤りと、笑顔の下、腹の底の強い塊。



ビリー・アイリッシュを聴いてると、忘れていた何かを思い出させる。

あの頃の自分と、今の自分は、変わらないところもあると。

でも、あの頃の自分より、たくさん生身の傷をおって、その上で、今の自分のほうが強くなり、しなやかになっている。


ビリー・アイリッシュは、芸術的な感性があって、繊細さと透明感がすき。

ロックの世界の、グレタさんと言われているが、納得。

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