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私たちは、循環の中で生きている

今朝、春の暖かい光を浴びながら散歩をしていた時、
ふと、「私たちは入れ子構造の中で生きている」と感じた。

「循環」の概念は、微生物や体の仕組み等から、知っている知識ではあったが
体感として、突然腹落ちしたのだ。
そしてその腹落ちは、私たちがなぜ「自分探しをするのか」の疑問にも答えてくれた。


循環が止まると腐っていく

「ためない」とは、毎日の暮らしについて回る汚れやいらないものを溜めない工夫に始まり、今手元にあるものを十二分に使い切る、ということに通じます。
身近なところでは、冷蔵庫の中から台所全体へ、そして家の中全体へ、さらに、住んでいる人の体の中まで、物が貯まるところは随所に潜んでいますね。ちょっと見渡せば世の中は滞ったり、循環がうまくいかないところだけらけです。
川は流れが止まると、すぐによどんで腐敗臭がしてきます。同じように流れのあるところ、血管でも腸でも体内を流れているものも、「溜まる」と具合が悪いもの。世の中全て気持ちよく循環しているのが理想の状態だと思います。

「ためない暮らし」有元葉子

川の流れも家の中も身体の中もすべて「循環」でできている。
流れが溜まると具合が悪くなり、循環していれば気持ちの良い状態になる。

大根でも豆でもなんでも、私たちの口にするものはすべて、命を与えられて世の中にあります。
それを最後まで「食べ切る」「使い切る」ことで初めて、そのものが生かされる。
自分もそうです。自分自身も使い切りたい。「十分に生ききったね」と思ってもらいたいし、自分自身も「充分に使い切った。はい、さようなら」と思える人生が理想です。料理も家事も人生も大事なことは一緒。要は自分を使い切ることです。

「ためない暮らし」有元葉子

素材を使い切る過程で、「循環」を意識できるようになる。素材の特徴をつかみ、充分に使い切る。身体で触れて匂いを嗅いでよく観察することで、使い道がわかってくる。素材をよく知ることでキッチンの向こうにあるより大きな循環を意識できるようになる。

料理家の有元葉子さんはその循環を身体知で知っているから、人が思いつかない美味しいレシピを編み出せるのではないだろうか。

私たちは、『創造すること』を前提に発達してきた


赤ちゃんは、まず自分の手や周りのものを舐めて、内と外の関係性を把握しようとする。
次に他者と自分の差異を調べる段階に入る。
私たちはなぜ状況を把握しようとしたがるのか。
それは、現在地を知ることで行きたい場所に行けるからだ。
つまり、『何かを創造すること』を前提に発達しているのではないだろうか。

何かを生み出すことができる、という前提で生まれてきているから、
そのためにまずは自分を把握する必要がある
なぜなら、何ができるのか知る必要があるからだ。
料理素材にどんな特徴があってどう活用するかを考えるのと同じだ。

「私はどんな特徴を持っているのだろう?」
「他者との違いはなんだろう?」

この問いかけを、赤ちゃんの頃から死ぬまでずっとやっているのではないだろうか。

この仮説でいくと、
SNSで人と比較して落ち込むことも、
占いで自分の才能を聞きたがることも、
人に褒められて有頂天になることも

納得がいく。

「自分とは何なんだろう?」
「何ができるんだろう?」

ずっとこれを知りたがっている。
これが、何を創造するかを決めるスタート地点になるからだ。

そして、いくらか知った後、
何かを作って他者に差し出してみる。
喜んでくれた。
喜ばれなかった。
この経験を重ねることで、自分の特技の解像度を上げていく。
解像度が上がるとさらに自分の特徴がわかり、
他者に喜ばれるものを作り出せるようになる。

なぜ人に喜ばれると嬉しいのか?



ここで疑問が出てくる。そもそも
なぜ、他者に差し出す必要があるのか?
なぜ、他者に喜ばれると嬉しいのか?
なぜ、一人で楽しむだけではダメなのか?

それは、私たちが循環の中に存在しているからだ。

家族、サークル、学校、会社、人間の営みのある共同体。
私たちは、いろんな箱の中に所属している。

例えば、
ある箱の中で、あなたが隣の人を喜ばせたとする。
そうするとお互いの機嫌が良くなる。
二人の機嫌が良くなることで箱の中の空気が少し変化する。
ご機嫌になった隣の人が他の誰かを喜ばせる。
その二人の機嫌が伝染してさらに空気が良くなる。
結果、同じ箱の中にいるあなたにも、良い空気が降り注ぐ。

私たちは一つの箱の中に存在する共同体だ。
あなたの行動は他の人々に否応なしに循環してしまう。
良いことも、悪いことも。
最後は同じ箱の中にいる自分に舞い戻ってくる。
至極当たり前の話だろうか?
しかし、私はこの感覚を今朝まで実感できていなかった。

ご機嫌でいないと とか
人に感謝しないと とか
されて嫌なことはしない とか
正論は世の中に蔓延っているが、

「循環」の概念を理解すれば、
何故それをすることが必然なのか? が腑に落ちる。

つまりペイフォワードの概念なのだが
「空気」と捉えると非常にわかりやすいのではないか。

創造のスタートラインは自己対話


だから、まずは自己対話が必然なのだ。

「自分が何を差し出せるのか?」が
わかっていない人が多いと感じる。

自己啓発本が流行り、
マインドフルネス本が売れ、
スピリチュアルや占いが流行る。

現在のトレンドを見れば一目瞭然だ。


本当の私
本当にやりたいこと
自分軸
隠れた才能

これらのワードになびく人は多い。
自分自身と対話できていないから、わからないのだ。
安直に人に教えてもらいたいと飛びついてしまう。
それほど渇望しているのだ。
だって、創造することを前提に生まれてきているのだから。
創造したくてうずうずしているのだから。

創造という言葉が自分とはかけ離れたものだと感じている人がいるならば、
言い換えれば、「喜びを分かち合う行為をしたい」ということだ。
創造とは、いわゆる芸術作品のことではない
あなたが発する一言、行動、行為すべてが創造なのである。

そう考えると、自分にもできることがたくさんあると
気づいてもらえるのではないだろうか。

私とあなたは、
シチューの中の人参と玉ねぎの関係

私たちは循環の中で生きている。
だから、自分を取り囲む環境を良くしたいと思うのは
自然の感覚だ。

「世のため人のため」なんて
利他的で偽善者な考えなのではないかと卑屈になる必要はない。
自分が気持ちよく過ごすことと等価なのだ。
じゃあ結局は自分のためにやっているのか?と言われると、
そうでもない。

同じ共同体にいるもの同士、入れ子構造を思い出せば、
他者も自分も結局は同じ場所にいるからだ。
他者も自分も同じ存在物なのだ。
シチューの中に入った人参と玉ねぎのような関係だ。

だから、もしあなたが人参なら
玉ねぎになってしまったらシチューの調和が取れないので、
玉ねぎの特性を知りたいと思う。
同時に自分の人参の特性を知りたいと思う。
そしてより濃く人参の特性を出したいと思う。
それがシチューとして美味しくなる秘訣だ。

そう考えると、思いがけず利他になることができる。
意図的に仲良くしようとするのではなく、
ごく自然に相手を尊重することで同じゴールに辿り着くことができるのではないだろうか。


そんなことを、桜がひらひら舞う朝散歩で、
考えていたのである。
あなたは、どう考えるだろうか。

孤独のプロより


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