見出し画像

そうめんに春

 そうめんは、夏にだけ食べる。そんなポリシーがあって、普段は食へのこだわりなんてほとんどないほうなのに、なぜかその季節感にだけは気を遣っていた。スイカバーは夏にしか食べられないから数段おいしく感じるように、食べ慣れて、特別感やありがたさが薄まってしまうのが嫌だったのかもしれない。

 昔からそうやって、自分の中のポリシーというか、ジンクス的なものにとらわれて生きてきた。たとえば、いいことがあってもそれを人に話すとのちにうまくいかなくなる、とか、雨の日は縁起が悪いからなにもしないほうがいい、とか。
 過去になにか具体的な経験があったわけでもないのに、そう思い込んで、自分を苦しめたこともあった。祈りと呪いはとてもよく似ているから、はじめは「いい日になりますように」、「うまくいきますように」と祈っていたことが、変な方向に行って、呪いに変わってしまったのだと思う。

 しかし今年はなんと、4月という春まっただ中にも関わらず、そうめんを解禁した。わたしにとっては、かなり大きな出来事である。
 もともとそうめんは大好きで、この頃暑い日がつづくし、去年食べ損ねた分も残っているから、そろそろ食べたいなあと思っていた。とはいえ「まだ4月だし…」という後ろめたさから、手をつけられずにいた。
 けれども今日は、天気が良くて機嫌が上々だったのと、大好きな漫画『A子さんの恋人』を読み返していたら、”「正月以外も雑煮を食べて良い」という気づきが、ただでさえ豊かな人生をさらに豊かに!”という言葉を見つけて背中を押され、思い切ることにしたのだ。

 豚こまとなす、玉ねぎを炒めてから麺つゆで煮た特製の汁にそうめんをよそって、向かい側に座っているぬいぐるみに汁を飛ばさないよう、ちゅるちゅると丁寧にすする。去年の夏ぶりに茹でたものだから具合がわからず、ちょっとだけ固かった。
 それでも、4月の心地よい空気の中で食べるそうめんは最高だった。「春なのにそうめんを食べている」という背徳感もまた、スパイスになった。
 ジンクスを破ったとて、きっと悪いことは起こらない。だってこれは、”ただでさえ豊かな人生をさらに豊かに!"するための儀式なのだから。

 思えばこれまで、わたしが自分にかけてきた呪いも全然意味がなくて、いいことがあったのだと誰かに話しても、ただ喜びを分かち合えるだけだったし、傘が折れかけるような雨風の日にだって、ハッピーなことは全然起きた。それを思い知らされる春だった。
 26歳にしてついに、長年の呪いは解かれたのだ。なにか特別なきっかけがあったわけではなかったが、これまでに出会ってきたものや起きたことのすべてが、わたしをそうさせたのだと思う。

 これから先、心が窮屈になるようなことがあったら、たとえ春でも、秋でも冬でも、そうめんを茹でよう。呪いではなく、祈りの儀式として、そうしたいと思っている。



引き出しの 夏しか知らないそうめんに 春をあげよう 祈りのために



この記事が参加している募集

今日の短歌

新生活をたのしく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?