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はじめて家出をした日

毎年成人の日が来る度に思い出す。はじめて家出をしたあの日のことを。

僕はなぜか「家出」というものにずっと幼い憧れを抱いていた。それはもしかしたら多感な時期に「海辺のカフカ」を読んだ影響かもしれない。
何かしらのドラマがそこにあるような、淡い憧れをずっと捨てられず、かといって実行するほどの勇気も機会もなく、ただ頭の片隅でそれは仄かな熱を帯びていた。
「家出」という単語だけが僕の中でどんどん美化されていき、妙に甘ったるく、こそばゆく、胸の内側をくすぐっていたのだ。恋に恋する女学生と同じようなものである。

数年前の冬、ちょうど成人の日に、僕はついに満を持して家出を決行した。といっても、「探さないでください」といった書き置きをしていきなり出てきた訳では無い。わざわざ両親に「今から家出しようと思うんだけど」と提案し、わざわざ茶番のような喧嘩をして、ゆっくりシャワーを浴びてから荷物をまとめて地元のビジネスホテルに直行した。

そう、いわば「なんちゃって家出」である。

両親には僕の妙な願望に付き合わせてしまって本当に申し訳ない気持ちでいっぱいである。今思えば、両親は昔から鋭いところがあったから、僕の幼い願望を見抜いて好きにさせてくれたのかもしれない。

(といっても、当時は成人していて、宿泊先も地元のビジネスホテルだったため「危険では無い家出」だったことを念押ししたい。特に未成年の向こう見ずな家出や知らない人のお世話になるようなものは、失踪扱いになるだけでなく事件に巻き込まれるような言わずもがな大変危険な行為である。)

ビジネスホテルにつき、僕は「ついにこの日がやってきた…」と、妙な高揚感に浸っていた。とりあえずロビーで売っていた缶チューハイをあおりながらハイライトを何本か吸い、尾崎豊を聴いた。これでワルくなったような気分になれるから随分手軽な人間である。それから我にかえって、なんだか少し怖くなった。もしかしたら帰ったら自分の居場所がなくなってしまうんじゃないか?という漠然とした不安に苛まれ、家族の電話番号を見つめていた。
でもここで自分から掛けてしまってはもはや家出の体をなさず、単なる「旅行」である。いけないいけない、と頭をふって、とりあえず友人に電話をかけた。友人は呆れたような口調で僕に帰るように促したが、僕は頑として譲らなかった。
「なんでそんなに帰りたくないの?」
「いや、だってこの先に絶対何かあるんだよ。何かを見つけるまでは帰れない」
「何かってなんなの?例えば」
「それは分からないけど…」
「とにかく、冬なんだからあったかくして寝な」
そう言って電話は切れてしまった。また煩い静けさが部屋に満ちていき、暖房の音と自分のお腹の音だけが響いた。

(そういえば、夕飯を食べていなかったな…)
どこかの本で読んだ受け売りだけれど、生きるというのは食べることでもある。
ちょうど目と鼻の先にある居酒屋の隅の席で、僕はうどんを食べた。またレモンサワーを飲みながら、上手く回らない頭で僕は何を探してるんだろう、とぼんやり考えた。何か、漫然と家に居たら見つからない何か。1人にならないと、見つからない何か。ぱっと浮かんだ単語は「自分」だった。「自分探し」という言葉が一時期流行っていたが、それに近いんだろうか?…でも、自分というものは探しても探してもよく分からなかった。己の尻尾をくるくると追い回す犬のように、「自分」が眼前に来たと思えばすぐ離れてしまう。就活で散々「自己分析」はやったが、それはあくまで(この言い方は乱暴だが)「企業にとって価値のある」自分像の模索に過ぎない。ほんとうの、自分というものはもっと傍からしたら価値のないような部分も沢山あって、それでもその部分も大切な「自分」である。でも、じゃあそれって何?と聞かれても上手く解答できない。…とてもじゃないが、たった1日の家出で答えが出るようなものではなかった。
とりあえず思考を辞め、その日はぐっすりと広いベッドで眠った。


目が覚めてから、僕は湘南の海へと向かった。そう、家出といえばとりあえず海である。少なくとも僕の中ではそう決まっていた。海は当たり前だが閑散としていて、数人のサーファーが波をただ待っていた。ざあ、ざあと濃紺の海が生きていた。空が高く澄み、ときおり寂しそうにとんびが円を描いていた。

僕はこの先何になるんだろう。そんな思いがフツフツと込み上げてきた。もちろん、夢はある。でも何になるか、何になれるかは分からなかった。まだ未完成の自分が、もどかしく、焦燥感が一気におそってきた。
今の僕は、何なんだろう。次に浮かんだのはそんな思いだった。成人して、特に肩書きを名乗れずに過ごすような毎日だった。ずっと春を待つ幼虫のように、暗闇のなかで僕は息だけしていた。みんな、みんなはもうとっくに蝶や蝉になっているのかもしれなかった。あるいは羽ばたく白鳥に、あるいは満開の桜に。僕だけに永遠に春が来ない世界だったら、どんなにさみしいだろう。じっと丸まったまま、何者にもなれずに何度も何度も冬が来て、やがてちいさくちいさく死んでいくとしたら、どんなにさみしいだろう。

名前しか書けない名刺の空白は洗いざらしのTシャツの色
「まりあの子」ミラサカクジラ

自分の昔作った短歌を読み直して、数時間経った。気付けば足も手も冷えきっていた。頬になみだのあとが、乾いた川をつくっていた。

合宿で花火をした夜先輩が大人になるねと呟いたこと

大人ってなんなんだろう泣きたい日泣かずに布団にはいる人かな
「あおみどりの季節に」ミラサカクジラ

大人。大人という言葉を反芻した。大きな人、と書いて大人。今の自分は、果たして大人なんだろうか。ちいさくちいさく生きていた。子ども部屋の主として、何かを成せないままで。
そうだ。きっとそれが、嫌だったのだ。僕は、家が嫌だったわけじゃない。子ども部屋で漫然と生きている自分が内心たまらなく嫌だったのだ。
じゃあ、どうすればいいんだろう。どうしたら、大人になれるんだろう。何者かに、なれるんだろう。春が来るんだろう。生きて、いけるんだろう。

素足になって、僕は海へと歩き出した。一歩一歩、ずっと探したかった「何か」に近づくように。泡立った波が足にまとわりついて、冷たさが電気のように走った。ざあ、ざあ。あ、生きてる。そんな感覚がたしかにした。くるぶしまでを波が隠しながら、僕は水平線を見た。もう夕暮れが迫って、シーキャンドルがひかりを回していた。一番星が出ていた。ざあ、ざあ。生きて、生きていける。そんな予感がした。言葉が次から次へとあふれて、創作欲求が胸をみたしていった。そうだ。やっぱり、書きたい。書き続けたい。何者かになれるかは、まだ分からなかった。でも、やらないとはじまらない。それに、最初から僕は僕だった。それ以上でも、それ以下でもないのだ。生きているということ。そして、生きていくということ。それだけで充分なんだ。笑みが自然とこぼれた。波を思いっきり蹴り飛ばした。水がひかりのつぶになって飛び散った。そうだ、そうだ。生きてるじゃん。生きていけるじゃん。そんな当たり前を、僕は見つけた。

砂浜でスマホを確認したら、「今日、夕飯どうする。」と、父からLINEが来ていた。「今日は、ステーキです。」と。僕は少し笑って、少し泣いたあと、「食べます。ありがとう。」と返した。その日のステーキには僕の苦手なシメジが添えられていたが、それも今となっては、良い思い出なのだ。

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