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言葉を使う、ということ

わたしには神様がいた。泥沼の底にも届いた、曲があった。ひかりだった。蜘蛛の糸だった。当時のわたしは、自分の人生が残酷だと知ったばかりだった。だから、自殺という解答を投げつけるつもりだった。でも、そんな時にたまたま聴いた曲に、わたしは救われました。「誰かが生きてく一秒ずつ言葉にできたならば」「僕らは生きてく気がするのさ、言葉をばら撒くように」。生きていける、気がした。言葉を、わたしは信仰することにした。


どうしてわたしたちは言葉を使うんだろう。言葉は、間違えて使うとひとを殺してしまう。あぶない、ナイフ。だけどそれは暖かな毛布にもなる。命綱にもなる。きっとわたしたちは、人間は、手を伸ばし合う動物なんだ。その手はだれかの頬を叩くかもしれない。あるいはそっと頭を撫でるかもしれない。四足歩行だったわたしたちは、手を伸ばし合うために前足を浮かせた。言葉を、使い始めた。


わたしを救ってくれたアーティストは、自殺してしまった。「大人になってはいけないらしい」と言い残して。その日から人生がまた真っ暗になった。神様は死んでしまった。
それでもわたしは、大人になってゆく。
だから拙い声で、わたしは歌いはじめた。
自分を肯定するため。だれかを、世界を、肯定するため。春の朝のやさしさが、夏の夜のささやきが、秋の落ち葉を踏む音が、冬のホットミルクが、大好きだって言いたかった。
こんな汚いわたしにも、世界は時々わらってくれるから。世界を、誰かに、あなたに、届けたいから。


大人になってもいいよ。なれなくてもいいし、ならなくてもいい。大人だって、そう、あなたが今日出会った綺麗な髪の高いヒールのひとだって、家に帰れば幼稚園児かもしれないよ。ピーマン食べたくなくて泣いてるかもしれないよ。大丈夫だよ。やさしくなでてくれるひとが居ないなら、歌集を読めばいい。きっとそこには、海が広がって、空は七色で、鯨の背で伸びをして、知らない駅がまっている。とおくに、とおくに、あなたを連れていきたい。わたしも知らない場所に、一緒に行こう。


わたしは絶対に、死なない。自分からそれを選択はしない。もちろん過去に、現在に、窓際の羽虫のように潰されそうになるときはある。でも、未来はいつだって真っ白だ。一秒後を、わたしたちは知らない。一分後は、涙がとまるかも。明日は、擦りむいた膝が乾くかも。明後日は?ねえ、来年は?


いつか天使だか、死神だかは知らないけど、迎えが来たら手を握り返すだけ。そうしたら、わたしの体温は冷えていくでしょう。鼓動は凪いでいくでしょう。
それでもきっと、紡いだ言葉たちは、生きているから。あなたの曲は、やっぱり救いだから。わたしの歌も、だれかを救ってね。


「あなたの短歌をよんで、自死をやめた」
そんなDMが、昔一通来た。その時に気付いたんだ。救われてるのは、他でもない、わたしだってこと。世界を穴から覗いては、三十一文字にして、すこし生きることがすきになって。だから、ありがとう。あなたに、ありがとう。言葉に、ありがとう。
だいすきだよ。生きていこうね。


【代表作】

星の死を見たいとあなたが言ったから五十億年おしゃべりしよう

台本をみな胎内に忘れてはひかりのほうへ飛びだしていく

友達はOLさんになっていた(くらげになると言っていたのに)

蚊柱が巨大なマリア像になりわたしを川へ行かせはしない

約束をするならぼくなんかじゃなくて宇宙にむけて指切りしなよ

鳩の骨が標本のように落ちていてあなたの鼓動をきいている午後

土星から母のお腹に不時着し今日もコンビニでレジを打ってる

生花よりドライフラワーが好きと言うあなたは写真をよく撮っている

定めないことを定めちゃだめですか 証明写真を真後ろで撮る

晴れの日にビニール傘をこじあけて世界に穴をあけゆく遊び

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